ピアノをきかせて

出 版 社: 講談社

著     者: 小俣麦穂

発 行 年: 2018年01月

ピアノをきかせて  紹介と感想>

この物語の見どころのひとつは、いたって悩みの少ない主人公の心に兆す揺らぎの瞬間です。突然に湧き上がる激情がとても胸を打つのです。もっとも、主人公は深刻な状況に追い込まれていないし、葛藤しているわけでもありません。家庭はかなり裕福だし、家族にも恵まれている。良い友人もいます。なによりも音楽を素直に楽しんでいる。その天真爛漫さと幸福感は、見ていて嬉しくなるのですが、対極に、音楽に苦しんでいる主人公の姉がいて、主人公と音楽の豊かな関係性が逆に際立ちます。児童文学には音楽の歓びを描いた作品がとても多いのですが、壁にぶつかることも同時に描かれます。この壁との闘いを姉が一手に担っていて、主人公である妹はただ気楽に音楽を楽しんでいるという構図です(いや、妹は実に姉のことを慮っているのですが)。一方で、苦闘する姉は選ばれた人であって、凡夫である妹としては羨しさもあります。それよりも、もっと姉の輝くようなピアノの音を聞いていたい、という憧れる気持ちが強いのです。この姉妹の関係性のもたらす空間が非常に魅力的です。僕は独学で実に適当に音楽に取り組んできたのですが、時折、ちゃんと基礎を習得しておけば良かったなと思うこともあります。まあ、退職したら一から勉強しようかぐらいの感覚ですが、これも凡夫の気楽さであり、ちょっとした淋しさです。どう音楽を楽しむかなんて個人の好きずきだと思うのですが、ここで克己心を発揮して修練を積んだ人だけが到達できる境地もあるのでしょうね。どちらが正しいとも言えませんが、この物語、ひたむきに打ち込むだけではない音楽の愉しさや、気楽に肩の力を抜いて音楽に接していく感覚が良いなあと思えるのです。クラシック以外で実名登場する楽曲のユニークなチョイスも面白いところ。第59回日本児童文学者協会新人賞受賞作です。

姉の名前は千弦(ちづる)。妹の名前は響音(ひびね)。音楽に関係する人になって欲しいという母親の願いを名前に込められた姉妹。主人公で、妹である小学六年生の響音は、自分で演奏するよりは、楽しく歌ったり踊ったりすることが好きなタイプです。いつも遊びに行く祖父母の家で、東京から久しぶりに戻ってきた若い叔母の燈子の弾くピアノの豊かな表現に心酔して、意気投合し、燈子が以前に通っていた小宮山音楽教室の活動を一緒に手伝うことになります。それは、地元の「ふるさと文化祭」で音楽教室が披露する音楽劇に参加することでした。音楽教室には、小中合同卒業式でピアノ演奏を披露していた中学三年生の秋生(しゅうせい)もおり、一緒に劇を作ることで盛り上がっていきます。すらっとして優しそうな男子、秋生に憧れていた友だちの美枝も仲間に引きいれた響音は、さらにピアノが上手な姉の千弦を誘おうとしますが、あっさりと断られます。音楽学校を受験しようとしている千弦は、そんな余裕はないというのです。この頃、響音は、姉の弾くピアノの音の変化に気づいていました。上手だけれど、音に合わせて踊ることができない姉のピアノ。技術が高く、まちがえることはないけれど、重くて楽しくない演奏になっていると響音は思いはじめていました。それはそのまま、演奏に悩む千弦の心を反映していたのです。お母さんの期待を一身に背負って、「お母さん、音楽の道に進むことが夢だったから」や「千弦は、ほんとうに才能があるわ」という言葉にプレスされていく姉。響音は、うたったり踊ったりが好きだけれど、真面目に鍵盤に向かわなかった自分のせいで、お母さんが千弦に期待をかけすぎることになってしまったのだと考えています。姉のピアノの音が輝きを取り戻せるように、音楽を楽しいと思えるように、千弦の心に「いきいきとした、きらめく音の粒を、届けたい」と響音は思います。音楽で心をゆさぶること。自分の心とたたかっている姉に、音楽劇の制作を通じて働きかけ、新しい世界を見せようとする響音。クライマックスの音楽劇の舞台とその後の満ち足りた時間まで、音楽が流れ続ける優しさに溢れた物語は続きます。

響音は終始、千弦のことを考え、ピアノを弾くことを楽しんでいる叔母の燈子や秋生のように、千弦にも音楽の楽しさを取り戻したいと考えます。むずかしい状態になってしまった千弦とお母さんの間をとりもち、二人の心を結び付けようともします。そんな素直で天真爛漫な響音なのですが、姉だけではなく、自分だって音楽が好きだということをお母さんに見ていて欲しいという気持ちを隠し持っています。さびしい、という言葉を言い出すことができない響音が、気持ちをこめて歌を唄い、お母さんに聞いてもらう場面は胸を打ちます。響音が自分の本心を表に出す場面は、ほんの数ページしかないのですが、いつも誰かのことを考え、応援しつづけている姿が、逆にいたわしくなるのです。音楽を楽しみ、演奏に感激し、その感動を隠さない。稀有で、魅力的なキャラクターである響音の存在感が実に大きい物語です。 ところで、この物語、色々と意表をつかれる楽曲が登場します。ひとつは、ピアノ曲としての『戦場のメリークリスマス』です。千弦はこの曲を中学校の卒業式で演奏しますし、響音はアンデルセンの『雪の女王』をモチーフにした音楽劇の中で、この曲で「踊る」のです。この曲を聴いて、まず、あの映画のラストシーンが浮かんでくる世代にとっては、かなり異色のコラボ感があるかと思います。いや、戦メリが既にスタンダードになっているのだと感慨深くもあります。小学生がこの曲を聞いて、その優しい旋律に、雪のふる光景を思い浮かべる、のですから。一方で、秋生がクラシックのコンテストで突如『千本桜』の演奏を敢行して、毀誉褒貶を受けたりするあたりは、現代的な感覚で描かれています。いや、きっと何十年かしたら『千本桜』もスタンダードになるのかと、劇伴がコンテクストを離れて窯変していくことについて考えさせられました。また音楽劇は、谷山浩子さんの『カイの迷宮』をベースにしています。こうした「なんでもあり」の組み合わせが実に斬新であったなと驚かされた作品です。