出 版 社: 早川書房 著 者: 沖方丁 発 行 年: 2003年05月 |
< マルドゥック・スクランブル 紹介と感想>
優れたライトノベルとして定評がある一方で、これはライトノベルはないとも言われている作品です。日本SF大賞受賞作でもあり、出版社とレーベルがライトノベルではない、ということでライトノベルとして分類しないという方もいます。自分にも、このライトなノベルが、かなりヘヴィに胸に響くところがありました。作者曰く『殻に閉ざされた少女と煮え切らないねずみ』の物語は、二人(一人と一匹)の心の闇ゆえに魅力的で、深く気持ちを吸い寄せられてしまいました。バイオレンスに震撼すると同時に、切なさに身を削られるような思いもする味わい深い作品です。全三巻通して読んでこそ感じられる満足感があります。悲惨な生い立ちの少女。実父からの性的暴力や施設での虐待を受け、心を閉ざして育った少女娼婦パロット。自分が「自分として愛される」ことを強く希求してやまない子です。「なぜ、私なの?」その問いをいつも胸に抱いている。そんな彼女が被害者となった殺人未遂事件。瀕死の重症から救われた彼女を公的にサポートすることになったのは、ドクターとウフコック。ウフコックは人間並みに知能を肥大させられ、どんな物体にも姿を変えられる万能兵器に進化させられたネズミです。ウフコックは自分が何者なのかわからないまま、自らの「有用性」のために、誰かの力となるように戦っています。ウフコックは『俺は君を守ることで、俺自身の有用性を証明する』とパロットに告げます。ウフコックとパロットの力がひとつになるとき、迫りくる魔の手に敢然と立ち向かう攻撃力が発揮されます。とはいえ、それは兵器として生きざるを得ないウフコックの能力ではなく、心の限界を超えるものでもあったのです。
有用性・・・「必要とされること」という言葉が、ひとつのキーになっています。少女娼婦バロットの心にある「なぜ、私なの?」の問いかけは、「自分だからこそ愛される」のだ、という答えを欲しています。その切実さと孤独感が作品のベースに流れています。孤独な人間と生物兵器の悲しい闘いを描いたクーンツの『ウォッチャーズ』が思い出されますが、「孤独な魂」同士が歩み寄っていく姿にもクーンツ的なものを感じます。ウフコックは、どんな兵器にもなれる万能性と破壊能力を持ちながらも、その潜在能力が「濫用」されることを恐れています。「使用者」に使われることによってのみ、その有用性が証明される存在でありながら、恐怖と残虐をもたらす「ただの武器」になることには耐えられないのです。彼は使用者を「庇護」することに自分の存在意義を見出そうとしているのです。破壊マシーンに徹することのできない「煮え切らない(ウフコック)」ネズミ。ウフコックはパロットの暴走のために、大いに傷つき、メンテナンスに入ってしまいます。パロットは、ウフコックの心を傷つけてしまったことを悔いることとなります。人間本来がもつ「焦げ付いてしまう」心の闇、それを抱え、外に投影しながら解決を見出していく生き方を選択するパロット。事件の複雑さもさることながら、こうした心のありようが深く描きだされるあたり、ただのライトな作品ではないとゾクゾクとしてしまうのです。
後半のカジノのシーンが特に良いのです。犯罪の証拠となる「目的のもの」を入手するためにカジノに潜入したドクターとパロットとウフコック。怪しまれずに勝ち続けなければならない、そのギャンブルの緊張感。百戦錬磨のギャンブラーやカジノの従業員たちとの息づまる、ひそかな攻防。中でも素敵なのがスピナー(ルーレットを回す人)の美しい老婦人、ベル・ウィングです。この毅然とした高潔な老婦人に惹かれるパロット。矜持をもった人物に対峙して、彼女の心の成長が伺われる一節も良いのです。物語の始めには「死んだように生きていた」パロットが、今や、活き活きとした少女になりつつあることを実感できる瞬間です。こうして、だんだんと彼女の感覚が育っていくことが、この作品の大きな魅力となっています。この事件を通じて、殻に閉じこもって生きてきた少女は、自分で自分を活かす世界を獲得していきます。なんのために、自分が殺されかけたのか、「なぜ私なの?」の問いかけを行う、半死半生の淵から蘇った「人魚姫」は、大怪我で「声」を無くしたかわりに、生きる力を獲得しました。彼女がこんなにも力強くなっていくことを、読者に愛情をもって見守らせてしまう力をもった小説であったと実感しています。 少女の「成長物語」が、ここに鮮やかに描かれていきます。「相棒」であるウフコックの「有用性」についてのこだわりが、もう少し掘り起こされると良かったのですが、このテーマについては、僕自身も、もうすこし考えてみたいところです。