地下鉄少年スレイク

SLEAK’S  LIMBO

出 版 社: 原生林

著     者: フェリス・ホルマン

翻 訳 者: 遠藤育枝

発 行 年: 1989年08月

地下鉄少年スレイク  紹介と感想>

両親がおらず、親戚の家ではやっかいものとして台所に寝かされ、半ば虐待されながら育った十三歳の少年、スレイク。学校でも街でもいじめられている彼にとって、ここニューヨークの地下鉄網は、いざという時に逃げこむための避難所でした。チビで近眼で空想癖があり、生傷が絶えず、世の中に馴染めない。そんな、いかにもYA作品の主人公の少年が、ふとしたきっかけから冒険の旅に出る、となればワクワクする物語のはじまりですが、それが地下鉄の駅と駅を結ぶトンネルが舞台となれば、また趣があります。学校で手酷くいじめられた日、地下に逃げこまざるを得なくなったスレイクは、階段を駆け下り、コロンバスサークルの駅の改札を切符なしでくぐり抜けました。まさか、そのまま100日以上も外の世界に出ずに地下鉄構内にとどまることになるとは。ほんの偶然から、スレイクは地下鉄のトンネルの中に、自分に最適な隠れ家を見つけてしまいました。地上に建つホテルの地下部分に、なんの手違いか残されてしまっていたデッドスペース。トンネルの壁が崩れて空いた隙間から入れる、その「はざま」の小部屋を見つけたスレイクは、ここに住むことを決めました。誰も知らないアーバンな孤島に住む少年は、どうやってここでサバイバルしたのか。不幸な少年が初めて得た自由を謳歌する、いや、もちろんヒヤヒヤドキドキしながらの地下生活を見守る物語です。

さて、一人で生きていくとなれば、まずは食べ物を調達しなければなりません。狩りや釣りや採集ができるわけではないのがアーバンなジャングルです。改札の中にいることで、地下鉄に乗ってどこまでも移動できる機動力はあるものの、食糧を見つけ出せるわけではないのです。とはいえ、お金に換えられるものを入手できることもあります。スレイクは捨てられやた新聞を拾い集め、ホームにいる人に買ってもらうことに成功します。そのお金で駅のコーヒーショップでささやかに朝食や晩餐を得るルーティンを見つけ出しました。やがてその店で掃除をする代わりに、食事を提供してもらう契約を結びます。何よりも嬉しかったのは、その掃除の仕方をほめてもらえたこと。そして、いつもちょっとしたサービスをしてくれるウエイトレスの好意もまた。生活に余裕が出てきたスレイクは部屋の装備を充実させていきます。ヒヤヒヤしながらも、不思議と誰にも気づかれることもないまま、スレイクの地下生活は続いていきます。とはいえ、運命のカウントダウンはスレイクの物語と一緒に並走していたのです。いつかくるこの時間の終わりを次第に予感させる展開もまた心惹かれるところでした。人とまともにコミュニケーションすることもできなかった少年が、それでも多少の社会性を獲得していく、不思議な成長物語です。

一人でいても安心して落ち着ける寝床があって、生きる楽しみもある。それだけで良いのではないか、というのが、ライフスタイルの価値観が多様化した現代かと思います(ちなみにこの文章は2020年に書いています)。人は、もっとちゃんとしなければならない、というような「戒め」も随分と緩くなったのではないかと思います。この物語をいつか読み返そうと思い本棚に入れたまま四半世紀以上が経っていました。さすがに地下鉄に隠れ住むのは推奨されないものの、人が自由に生き方を選択することに、時代は多少、鷹揚になったかも知れません。この本についてレビューを書こうと思いながらも機会がないまま胸に秘めてはいました。ずっと好きだった物語です。軌道を少し外れたところにあるけれど、なんだか自由がある、そんな心持ちに憧れもありました。実は、2020年7月、SNSを震撼させた話題の「ステーション・バー」に衝撃を受けて、今こそ書かねばと思ったのです。駅の構内の隙間で密かに缶ビールを隠れ飲む中年男性が自分の行為を「ステーション・バー」と呼ぶという、その珍風景にどこか心惹かれたのは、多少、この物語に通底するものがあったからか(いや、ないか)。本書に戻りますが、あとがきで訳者が『クローディアの秘密』や『ロビンソンクルーソー』に言及しています。アーバンな孤島に隠れ住む、そんなロマンもまたある物語です。この感じが好きな方には、ホテルの地下室に住みついている靴磨きの少女を描いた『氷の心臓』という秀逸なファンタジーもおすすめします。