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出 版 社: 講談社 著 者: 佐藤まどか 発 行 年: 2026年05月 |
< 少女と毒 紹介と感想>
新宿は怖そうなところだ。そう思いながら育ちました。渋谷生まれで、高校も渋谷から歩いて通っていたので、学校帰りにセンター街のゲーセンで暇をつぶす暗い青春でしたが、不良に絡まれたことも一度もなく、渋谷って安全だよなと思っていました。だいたいのことは渋谷で用が足りるので、新宿に行くこともあまりなかったのですが、行くとちょっと緊張していました。いや、実際にひどい目にあったことはないので、先入観です。近場に住んでいてもそんな感じなので、地方の方は、新宿に対してどう思われているのだろうと考えます。先日、久しぶりに新宿で観劇して、ついでに、あの「トー横」と呼ばれている場所を目にして、有名観光地に来たようなテンションになりました。全国から家出少年少女がここに集まって、市販薬をODしたり、売春なども横行しているという噂の場所なので、青少年の育成を考える立場の大人としては、やはり興味本意ではいけないわけです。というか、そんな立場の大人だったら、子どもたちのために何かするべきでしょう。多くの大人は問題を見過ごしていて、困っている子どもたちと真摯に向き合わないわけですが、積極的に関わることのハードルはとても高いし、できれば、世の中の暗黒面は知らないで済ませたいものです。不良にからまれなければ、個人的には安全な街なので、闇は見えなくなります。個人的に良ければ、になりがちで、自分に危害が加わらないところで起きていることへの想像力をいかに養うかは問われます。さて、本書は、十四歳の少女がトー横を目指して新宿に家出してくるという、危険な匂いが満載の物語です。彼女がどんな闇に巻き込まれていくのか。その成り行きを見守りながら、家出せざるを得なかった相応の事情のある彼女が救済されることを期待するのですが、しかし、どんな結末ならリアリティがあり、納得のいくものになるのだろうかと考えていました。現実的なソリューションを文学に求めるべきではないのですが、やはり、今、ここにある問題として、心を騒がされる題材です。
中学二年生の女子、田中桃色蒼玉(ピンクサファイア)は、多くの苦難を強いられています。母親を憎む気持ちは、そんな変わった名前を周囲の反対を押しきってまで彼女につけたことだけではなく、浪費家の悪妻として父親を苦しめ、その死の遠因になったと思っているからです。ホテル経営に失敗して、後に事故死した父親を支えることもなく、となりの県の大きな街でクラブのホステスとして売れっ子になった母親は、放蕩生活を続けながら、家に一人、桃色蒼玉を放置したまま、たまにしか帰ってこなくなりました。ろくな生活費も与えられないまま困窮する桃色蒼玉。かつては学校も、父のホテルで働く従業員の子どもたちが多かったために、その名前をからかわれることがなかったものの、ホテル事業が失敗してからは、その立場も居場所も失い、不登校になっていました。この惨めで虐待された生活から抜け出すために、桃色蒼玉は、修学旅行費用を母親に無心して資金を作り、家出を決行します。目指すは、全国から家出した子どもたちが集まるという、新宿のトー横広場。そこに行けば、きっとわかりあえる友だちができるのではないかと期待したのです。しかし、それが甘い考えだと気づいたのは、そこが誰も助けてくれる人のいない場所だということを思い知ったからです。それでも高校生に絡まれたところを、キッツーと名乗る十七歳の少女のおかげで難を逃れ、彼女にしばらく泊まれるところを紹介してもらえました。こうして桃色蒼玉の新宿での生活が始まりますが、家出少女たちを親身に面倒見てくれる、通称ママという女性や、周囲の人々の善意の正体に、次第に桃色蒼玉も気づきはじめます。本心の忠告を与えてくれたリカという少女の言葉の真意を知った桃色蒼玉でしたが、気づいた時には手持ちの現金は奪われ、行く場所もなく、かといって帰ることもできないまま途方に暮れることになります。果たして、ここで彼女がとるべき行動とは何だったか。もちろんそれは、子どもが選択するものではなく、大人が導くものです。この窮地の彼女にも、まだ残された希望があることが、物語の救いとなります。
本作は、いわゆる毒親である桃色蒼玉の母親が強烈なキャラクターとして登場します。わかりあえない親とわかりあうこと、は物語のクライマックスに置かれるべきイベントです。娘は多くの経験を積んだことで、母親の気持ちを理解し、互いの誤解が氷解して、わかりあえるようになる。なんてことはないのは当然として、問題は、物語がそれを肯定するかどうかです。理想としては、親子は和解すべきです。それが理想的でしょう。ただそんな理想に疎外されることは避けるべきです。少なくとも、児童文学が肯定すべきは、親子はわかり合えなくても大丈夫、ということではないかと。それは親子の根幹には信頼関係があるから、ではなく、信頼関係がなくてもかまわないということです。残念なことではあるのですが、これ以上、傷つけられてはいけないので、背に腹は変えられないのです。本作の桃色蒼玉の母親は、そんな名前を娘につけるだけではなく、虐待を与える、感覚がおかしい「異次元のバケモノ」なので、共感することは無理です。アプローチも無駄です。ここ、難しいのは母親の異常性が障がいに起因したものだとすると、ストレートに異常者扱いもできず、一刀両断にできないところです。しかも、母親なりの愛情もあるとなると同情の余地はあるのですが、同情しないことが肝要です。本作の良い点は、主人公が母親に一切の愛着がなく、母親の愛情を求めて迷走するような葛藤がないことです。愛されたくて人は狂いますが、ここがあっさりと切り捨てられれば楽になります。そこに罪悪感を持たなくていい、親子関係が上手くいかなくても、新たな信頼関係を人は結ぶことができます。本書が描き出す希望も、実親との親子関係の修復にこだわらないことでもたらされます。文学はソリューションではないので、救済の方法論を学ぶものではないのですが、これまでの良識にとらわれず、子どもがより良く生きる姿を描き出されていることは重要で、真のウエルビーイングが導き出されているかと思います。まあ、あっさりと母親が親権を放棄するという展開に腹を立てる程度には、娘としても母親への期待はあったのだろうとは思います。なかなか割り切れないものがあるだけに、児童文学が押すべき背中もあるはずです。余談。桃色蒼玉って何かに似ていると、ずっと引っかかっていたのですが、今、思い出しました。「空色勾玉」ですね。
