ソラモリさんとわたし

出 版 社: フレーベル館

著     者: はんだ浩恵

発 行 年: 2021年12月

ソラモリさんとわたし   紹介と感想>

「無洗米なんて、フォーマット済みのフロッピーディスクと一緒ですよ」と、二十年以上前に、知人から、けしからん的なニュアンスで言われたことがあるのですが、もはやフロッピーディスクをフォーマットするって何、という現在(2022年)です。一方で無洗米はエコロジーの観点からも、防災時の備えとしても評価されるようになりました。その利便性は変わらずに高いものだと思います。無洗米に対する否定的なニュアンスは、米は研いでこそ美味しくなるという通念と、なんとなく手抜きっぽいという偏見からでしょうけれど、若い世代はそうしたしがらみからは解放されているかと思います。本書は、父子家庭の小学六年生の女の子が主人公であり、彼女が無洗米でお米を炊いていることが物語の鍵となっています。母親が生きていた時は米を研いでいたのに、亡くなってからは無洗米になったのには訳があります。僕も父子家庭で育ったため、小学生の時から米を研ぐ子どもで、当時は無洗米が一般化しておらず、これがあったら良かったなあと今にして思いますが、ポイントは、この主人公は利便性で無洗米を選んでいるわけではない、というところです。ただ主人公の少女は、その理由を言葉にできないのです。それがこの物語の仕掛けであり、また無洗米への偏見史も関係がないところが重要です。古い社会的因習に捉われていない、というか、そもそもそれを意識してすらないことも、この物語の魅力なのです。逆に、そこが物語を、悪く言えば「軽く」しているし、良く言えば「軽やか」にもしています。子どもが壁を乗り越えていくプロセスがユーモラスに描かれる楽しい作品であり、児童文学の描くものの変遷なども考えさせられる興味深い作品です。第三回フレーベル館ものがたり新人賞大賞受賞作。

小学六年生の日高美話(みわ)が学校帰りにメモ帳を落としたのは、一学期の終業式の日でした。それは秘密のメモ帳であり、必死に探し回るうちに、メモ帳を手にした女の人を見つけ出します。そのメモ帳は自分のものだと言葉足らずに主張したところ、その女の人は美話を「みーたん」と呼び、コンビニで美話にジュースとポテトチップスを振舞ってくれるのです。それでも、ソラモリと名乗る女の人は、メモ帳を返してくれません。メモ帳には美話の名前だけではなく、学校の課題の童謡コンテストへの応募作が書きかけのままで、どうにも人に見られるのは恥ずかしいしろものなのです。翌日、コンビニのすぐそばに住んでいるソラモリさんの家に、メモ帳を取り戻しに行った美話は、ソラモリさんのちょっと変わったライフスタイルを知ることになります。フリーランスのコピーライターだというソラモリさんは、毎日、沢山のキャッチフレーズを考えていると言いますが、勤め人の美話の父親に比べると、どうにも働いているようには見えず、ちょろい、と思わず言葉を漏らしてしまうほど。とはいえ、美話はそんなソラモリさんと次第に親しくなっていきます。二十六歳なのに大人気ない大人であるソラモリさんは、美話を子ども扱いせず、友だちのように接します。ソラモリさんがキャッチコピーを作るプロセスを追うことは、美話の言葉のレッスンとなっていきます。母親を事故で亡くして、言葉にならない言葉を胸に抱えたままの美話。ソラモリさんの突拍子もない行動に付き合いながら、少しずつ感化されていく彼女は、心にわだかまる思いを、言葉によって整理していきます。自分の実感を言葉にこめること。言葉をちゃんと使うことで、美話は母親を亡くして塞ぎこんでいた自分自身を解き放っていきます。そして、言葉にならない心があることを知り、それを読むこともできると知るのです。おかしな大人であるソラモリさんとの夏休みの日々が美話を変えていく、そのこと自体が「言葉で表現された」入れ子構造に惑わされる楽しい物語です。

小中学生ぐらいの女の子が若い大人の女性と親しくなる児童文学作品の系譜として『非・バランス』が思い浮かびます。1996年、四半世紀以上前の物語は、学校生活に苦悩する女の子に、さらにもがいている大人の女性を見せることで、アンバランスな心を正面から見つめることを示唆しました。西暦2000年刊行の『透き通った糸をのばして』もまた、大学院生の姉の、友人の心の闇に震撼させられる物語でした。実際、二十代の大人の女性たちも、まだまだ自分自身を持て余し、年少の女の子にとっての理想のコーチ役だとは言いがたいのです。ただ、大人もまた不完全であるがゆえに、子どもが感じ取れることもあります。本書に登場するソラモリさんという女性は、ややデタラメな感じでありながらも、非常に自己肯定感が強く、さりげなく美話を新しい世界に誘ってくれます。ソラモリさんが同性愛者であるということにも物語の中で触れられますが、ソラモリさん本人が頓着しないので、そうした社会通念に打ち勝つことさえも主題とはなりません。ソラモリさんが、たまたまメモ帳を拾っただけの関係の美話に、あたたかいまなざしを向けている理由は「言葉にされていません」が、その心を読むことができる、という物語の構造があり、さらに大きなフレームが物語の外に廻らされているのが面白いところです。社会的偏見を軽やかに蹴飛ばしている物語であり、大人の女性の生きづらさも意識させない軽やかな物語です。現在の社会の反語として、この物語を読むのはナンセンスですが、「言葉の力」で子どもが自分の未来を切り開いていく姿に希望が託されていることは確かですね。