火星の話

出 版 社: KADOKAWA

著     者: 小嶋陽太郎

発 行 年: 2015年04月

火星の話  紹介と感想>

至らなさも身勝手さも分別のなさも、やる気のなさも調子外れなのも、わかったような顔をしてシラけたフリをしていたことも、ただ醒めたポーズをとっていたことも、高校生の頃の自分の態度ときたら、みっともなくて、蹴り飛ばしたいところです。実に尊大で卑屈でした。真摯になにかに打ち込むことができなかったのは、臆病だったからです。何もできていないし、何も残っていないし、ただ迷走していた時間です。で、ずっと自分には「青春」がやって来ないなあという、焦燥やら諦めやらがあったのですが、俯瞰してみると、あの煩悶こそが「青春」だったというオチがつきます。なんということか。クラブ活動や勉強に精進すべきだったなと思いますが、まあ向日的ではない青春もあって良しだし、何にも一生懸命になれなかった不甲斐なさも、ノスタルジックで甘美なものと思える現在です。なんて、歳をとると、なんでもオールオッケーになりがちです。後悔を抱えているぐらいの匙加減の方が読書の糧となります。本書は、こうしたもがいている青春の時間をクールに描きながら、高慢になりがちな若さの奢りを明らかにして、ちゃんと反省する帰結を迎えさせます。失われたものもありますが、いつか回想の中で愛おしく思い出すだろうそんな時間です。無論、そこには、至らなかった自分への後悔があり、だからこそ愛惜もあるのだと思います。後悔に耽溺していては先に進めないのですが、切なく胸が痛くなるような青春こそが、やはり人生の精華だなと思うのです。

嘘つきな佐伯さん。高校一年生の「僕」こと国吉少年は同級生の佐伯さんと小中高と同じ学校に通っていました。そして、彼女がずっとクラスで浮き上がっていることを遠目に見てきました。それをまた仕方がないことだと思うのは、彼女が嘘つきだからです。自分は火星人だと名乗り、十八歳になったら火星に帰るなどという彼女のストーリーは、最初はユニークな子として人を面白がらせるものの、次第に飽きられ、イタい子として、関わりたくないと思われてしまいます。「僕」もまた、そんなやっかいな彼女に近づいたことがなく、口を聞いた覚えもありません。ところが、この夏休みも数学の補修授業で「僕」は佐伯さんと一緒に過ごすことになります。佐伯さんのどこかぽつんとした背中が気にかかっていた「僕」が、彼女に遭遇することになったのは、ショッピングセンターのゲームコーナーです。「太鼓の達人」を一心不乱にプレイする佐伯さんに気圧されながら、何故か一緒に太鼓を叩くことになってしまった「僕」。それから少しずつ二人は接近していきます。時折、手を筒状の望遠鏡のようにして空を見上げる彼女。その先には見えない火星があります。やがて補修の授業中、火星の白昼夢を見るようになった「僕」は、火星時代の佐伯さんとシンクロします。火星の記憶を共有した「僕」は、太鼓で火星と交信する彼女から、テロが横行する緊迫する火星事情を伝えられます。王女としての役割を果たすため、火星に帰らなくてはならない佐伯さん。そんな彼女を好きになってしまった「僕」は、彼女がここからいなくなることに、激しく動揺することになります。火星の話をする佐伯さんの嘘に「僕」は 何故、同調したのか。高校生たちの心の深層がやがて浮かび上がります。

人が責められたり、気まずくさせられたり、意地悪な態度を取られたりすることのない、穏やかな世界観の物語です。変わり者の佐伯さんも積極的に傷つけられるようなこともないことは安心できます。一方で緩慢なアイデンティティの危機がここにはあります。何もやる気が起きないスチューデントアパシーに陥ることは、思春期にありがちなことです。何もしたくなければ何もしなくて良いという地獄の季節。何かを始めなければならないという焦りだけがあるけれど、自分がやる必然性がないのです。中学生の時にやっていた陸上競技をやめてしまい、無聊を持て余している「僕」。友人の水野が医者になりたいという目標に目覚めて、がむしゃらに勉強を始めたことにも刺激を受けて、焦燥を感じてはいます。佐伯さんの嘘を一緒に信じることに「僕」は意味を見出してしまいました。でも「僕」の間違いは、佐伯さんが嘘をつかなくてはいられない理由には目を背けていたことです。まあ、青春とは短慮で視野が狭くて失敗しがちなものです。周囲にいる人たちを煩わしく思いながらも、その関係性から「僕」は多くを感じとっていきます。「僕」と同じように無聊を持て余している遊び人で派手な見た目の女子、高見さんはやたらと「僕」に絡んできたり、担任のチャラい外見をした山口先生も、そこそこ生徒思いで、この難しい年頃の少年との距離感を踏まえて示唆を与えてくれます。突如、勉強に目覚めた水野や、彼の、才能はあるのに何もしない兄への憤懣など、色々な青春のほとばしりにもまた味わいがあります。「僕」にとって、火星人の佐伯さんとはなんだったのか。今はいない「いつか見たガール」を思い出す作品には名作が多いのですが、その後悔が無力だった過去の自分自身への哀悼と感傷であるあたり、青春のエゴイズムについて考えさせられるものです。