笹森くんのスカート

出 版 社: 講談社

著     者: 神戸遥真

発 行 年: 2022年06月

笹森くんのスカート  紹介と感想>

作者の神戸遥真さんは、そのお名前からして男性だと考える方が自然で、女性かもしれないと勘繰る方がどうかしているでしょう。北島三郎さん女性説ほど珍奇ではないものの、その流言はどこから出てきたのかと思います。ジョルジュ・サンドのような、男性名かつ「男装の麗人」の異名をとった女性作家幻想もあって、謎めいた作家の存在自体がロマンとなることも往々にしてあります。たしかに、神戸遥真作品を読んでいると、女性作家さんではないのかという印象を抱かされます。ジェンダー意識が高く、また一方でジェンダーバイアスのかかり方が男性的ではないと感じられることが多いからです。それもまた、僕のジェンダーバイアスであって、男性はこういう考え方、女性はこういう考え方をするものという決めつけなのです。誰しもが異性に対する幻想や偏見があって、同性とは一線を画した捉え方や描き方をするものです。男性作家の描く少女や、女性作家の描く少年に仮託された幻影は、同性からすれば気恥ずかしくリアリティが欠けたように思えるものですが、思春期の異性への憧憬が繫ぎとめられたような面映さがそこにあるような気もします。つまりは男性から見ても、ちょっとイイ感じのナイスな少年が登場するというのが女性作家さんの魅力であり、逆に、幻想皆無のあけすけな少女像に驚かされることもまた魅力なのです。神戸遥真作品の少年少女像は是非、作品を読んで見極めて欲しいところです。特に各キャラクターの性別を逆転させた時に物語が成立するかどうかを想像すると、ジェンダーの深淵を考えさせられます。さて、時代は、性別など意識すべきではないジェンダーレスの領域に突入しています。制服も女子はスカートだろうとパンツだろうと自由に選択できる学校もあります。だったら男子がスカートを穿いても良いはずなのですが、やはり周囲は、そこに穿く理由を求めてしまうものです。それは異性の名前を名乗る作者の思惑をあれこれ考えるのと一緒なのですが、いや、神戸遥真さんの性別は本当に存じ上げないですよ、荒川弘さんだって女性だからなー、などと、考えて深みにはまっています。まあ、作家の性別など意識せず、ジェンダーレスに物語を楽しみましょう。令和5年度児童福祉文化賞受賞作です。

同級生の男子、笹森くんが高校一年生の二学期の初日である九月一日に、スカートを穿いて登校してきたことで、教室は騒然となります。中学時代はバスケ部で身長180センチ近い爽やかなイケメンである笹森くんの引き締まった長い脚は、スカートを着用することで際立っていました。たしかに制服はジェンダーレスでスラックスもスカートも選択は自由。とはいえ、男子がスカートを履くことは想定の範囲外ではなかったか。この笹森くんをめぐり、同級生たちは、そのスカートを穿く理由について、それぞれの思惑を巡らせていきます。小学生の頃からジェンダーや性的マイノリティについて学んできている高校生たちは、そうした存在がいることを理解して、歩み寄るべきだと考えています。しかし、笹森くんが果たしてそうなのかは謎のままです。ただ穿いてみたかったという、あっけらかんとした笹森くんの真意は最終章で明らかになりますが、人が人を理解するという行為の本質がここに現出されていきます。物語は語り手を変えながら、同級生たちそれぞれが、笹森くんの影響で、その気持ちを揺り動かされ、自分自身の内側にあるものを見つめ直す姿を描き出します。篠原智也は、多汗症を隠している自分に鑑みて、隠しごとを明るくオープンにできる笹森くんに、地味でコミュ症の自分に劣等感を抱きます。西原文乃は文化祭のステージに立つバンドのヴォーカルを頼まれて、ベースの笹森くんとも一緒に活動するようになりますが、彼の周囲の友人たちの笹森くんへの程よい気遣いや距離の取り方に、母親が同性カップルであるという自分の秘密を話してみたくなります。恋愛体質でぽっちゃり型の細野未羽は自分の容姿へのコンプレックスから、美しい恋人を求め続けています。逆に、自分の可愛らしい容姿に気づかれて人に干渉されたくない遠山一花は、ダサい自分を偽装して、周囲との距離を保っています。高校生たちの心の事情は複雑であり共有されませんが、スカートを穿く男子、笹森くんを斟酌し、彼の与えた波紋を受け止めることで、それぞれなりに自分の生きるスタイルをバージョンアップする契機が生まれます。秋の文化祭に向かって盛り上がっていくクラスの中で、高校生たちの静かな心の共鳴が響き渡る、秀逸な群像劇がここに展開しています。

昨今、LGBTQの概念が一般的になったことで、そうした人たちを理解しやすくなった反面、そこに当てはまらないものまでも押し込めて、わかりやすくしようとする傾向が社会にあるような気がしています。実際、理解できないものをそのままにしておくことには不安が生じます。近年の物語だと『キャンドル』や『ブラザーズ・ブラジャー』などの作品が、トランスジェンダーではないけれど女装をしたり、ブラジャーをつける少年を登場させましたが、読者として大いに戸惑うことになりました。やはり、女装する理由を知りたくなるのです。もっともそれは「自分にとって理解やすい理由」が欲しいだけであって、当事者の深淵に歩み寄ろうというアプローチではありません。端的に言えば、得体の知れない行為を恐怖しているため、わかりやすい理由をつけて安心していたいのです。本書は、スカートを穿く男子に対して、同級生それぞれがどのような気持ちを抱いたかが描かれています。変態だと言って露骨に差別するという小学生のようなプリミティブな反応はさすがにありません。未知のものへの恐れを抱いていたとしても、それぞれなりに斟酌することで、納得しようとする姿勢が高校生の柔軟さです(これ保守派の中高年なら一刀両断でしょうね)。そして、彼らもまた、人にはわかってもらえないだろうと思う衝動を抱えていて、自分の生き方を模索しているために、そこに共感に似たものを抱いています。大いに好意的に解釈しようとする姿勢があることが重要です。理解はできないが、好意を向ける。それは自分の中にもある、理由不明な衝動との和解であるやも知れません。自分なりにバランスをとろうとしている行動が、人からは理解不能で不自然に見えるものです。みんな自分なりにマトモでいようと努力しているけれど、そこに逸脱が垣間見えるあたりにドラマが生まれます。学校の教室って、色々な思惑が渦巻いているし、そこに恋愛への志向性の高さがデフォルトであるものだから、まあ大変ですね。大変なものを抜きに高校生の頃に戻って文化祭にだけ参加したいと思ってしまうのですが、あれこそが高校生生活の醍醐味であったかなあ。ジェンダー、LGBTQ、ルッキズムなど現代的なテーマが込められていながら、ほのかな得恋の気配や、真っ直ぐで健全な青春が心地良い作品でした。見事な構成でしたね。