雷のあとに

出 版 社: 文研出版

著     者: 中山聖子

発 行 年: 2020年01月

雷のあとに  紹介と感想>

主人公は小学五年生の女の子、睦子です。大人しく真面目な子で、友だちも多くはありません。学校の人間関係をめぐって、傷つくこともあります。それは誰かが悪いというわけではなく、「地味でさえない」「真面目」なだけで、明るくきらめくようなところがない自分への失意なのかも知れません。自信を持って堂々と言いたいことを言えるような子ではない、そんな自分になったことの原因に、薄々、勘づきはじめているのが睦子の現状です。物語は、睦子に強く影響を与えている、お母さんの性格上の問題点を次第に明らかにしていきます。お母さんに支配され、身動きが取れなくなっているのだと、睦子は感じています。その関係性の危うさが明らかになっていく物語は、むしろお母さんのやっかいで面倒くさい性格に興味を惹かれていくことになります。ありていに言って、お母さんは、どうかしています。非常に保守的で、独善的で、良かれと思って子どもを言いなりにしようとしています。お母さんの性格は全くもって、好ましかったり、憧れられたりするものではなく、最後は子どもたちにも「あきらめられる」という、かなり可哀想な状況に追い込まれます。そこに自分自身を重ねてしまう大人読者にとっては、他人事ではないと思うはずです。僕自身も、このお母さんと共通する性向があって、考えさせられました。主人公は睦子であり、ぼんやりとしていた彼女の風景に次第にフォーカスが絞られていく、その意識の目覚めは頼もしいものですが、何分にも、このお母さんの存在感の大きさに感想の大半を割いてしまいたくなります。いえ、睦子の心の動きの感覚表現が素晴らしく、心にえぐりこんでくる作品です。

仲良しだった咲ちゃんと睦子の間に割って入ったのが、転校生の茉莉花です。はじめは三人で仲良くしていたのに、だんだんと茉莉花は睦子に冷たい態度をとるようになり、咲ちゃんとだけ仲良くするようになっていきます。おのずと咲ちゃんとも距離が開き、一人になってしまった睦子は、より内省に沈んでいきます。そんな睦子にとって、落ち着く場所はハルおじさんの家でした。建築家だった、お母さんのお兄さんであるハルおじさんは、今年の二月に病気で亡くなっていました。病弱なのに、一人で暮らしていたハルおじさんの家は、空き家になっています。ここには、おじさんとの思い出がいくつも残されていました。「自分の本当に好きなものから広がる世界には、終わりがないんだよ」と、そんな自由な心の世界を示唆してくれた、おじさん。睦子は何をするわけでもないけれど、ここにいることで解放されていたのです。けれど、そんな気持ちはお母さんに理解されるはずもなく、おじさんの家に行くことをいつ禁じられるかと、睦子はずっとお母さんの顔色をうかがっていました。お母さんの独善ぶりには睦子だけでなく、兄の貴良もついていけなくなっており、反抗的な態度をとり、そのことがよりお母さんを意固地にさせていきます。睦子は、咲ちゃんや茉莉花をめぐる関係から、人の心の綾を知っていきます。広がり始めた睦子の世界と、閉じていくお母さんの世界が対照的で、ひと味違うこの成長物語をより味わい深いものにしています。雷が引き起こした停電のあとに、不理解を越えて、それでも家族の情愛や、繋がりを感じさせてくれる展開には感慨深く思うところがあります。雷が鳴ったあとには、新しい季節がはじまる。そんな言葉が家族の未来を予見させる、胸に沁みる物語です。

以前なら性格の問題として片付けられていたことが、病気や障がいなのではないかと考えが及ぶのが昨今です。成長する中でのお兄さんへのわだかまりが、その性格形成に影響を与えたとはいうものの、恐らく睦子のお母さんも何か病名がつく状態ではないかと思います。お母さんが誰かに文句をつけられると鬱状態に入ってしまうというエピソードは印象的です。庭からはみ出した夏椿の枝を切って欲しいと近所の人に言われて、お母さんは、ほとんど枝を切り落としてしまうという極端な行動にでた上で、そのままふさぎ込みます。睦子は、なんでもっと気楽に受け流せないのかと思うのですが、これは僕も非常に良くわかる心理で、同じようなことをやりがちです。多分、自分の書いた文章に批判を受ければ、一部訂正などせず、丸ごとごと消してしまうだろうと思います。この鷹揚でなさは、認知の歪みが引き起こすもので、認知療法などで自分の認知スケールの状態を知ると多少、楽になれます。あと、薬ですね。鬱傾向の人の場合、わりと自罰的になるものですが、このお母さんの場合、他罰的だし、責任転嫁しがちだし、自己正当化が強いので、非常に厄介だと思います。手に負えないなあ、と似たところのある僕自身も思います。こうしてお母さんは子どもたちから、話が通じない人として「あきらめ」られてしまうのですが、これもひとつの受け入れ方であって、親子や家族としての愛情や結びつきが御破産になるものではないというところがポイントです。転校生の茉莉花もまた虚言癖があったりする、やはり色々と問題のある子なのですが、それをまた睦子が、咲ちゃんとの言葉から理解していくプロセスが、彼女自身の心の広がりを見せてくれます。その自由になっていく魂のカウンターで逆照射される「偏狭な心」が、蠱惑的でもあるのですが、児童文学本来の楽しみではないとも思います。ところで、茉莉花、という名前に『茉莉花の日々』という作品を思い出しました(読み方はちょっと違うのですが)。睦子は自分の古臭い名前に引き比べて、茉莉花という派手な名前にインパクトを受けるのですが、そんな「宝塚のスター」みたいな茉莉花という名前が、自分の性格と合わない地味な茉莉花という子が主人公の物語です(そういえば宝塚に、此花いの莉さんという歌の上手い娘役がいたなと)。児童文学の主人公はおおよそ地味系です。名前と性格のほど良いバランスとは何かと考えさせられますが、そんなところから始まるドラマも興味深いものですね。