ジョージと秘密のメリッサ

GEORGE.

出 版 社: 偕成社

著     者: アレックス・ジーノ

翻 訳 者: 島村浩子

発 行 年: 2016年12月


ジョージと秘密のメリッサ  紹介と感想 >
トイレに行くたびに傷ついている人がいます。まさか、そんな人がいるとは思ってもみませんでした。そこが自分の想像力の限界です。トイレに行くたびに、自分の性別を思い知らされる。どんなに自分のことを女の子だと思っていても、入らなければならないのは男子トイレ。十歳のジョージは自分の身体が男の子であり、男の子としてふるまわなければいけないことに違和感を感じていました。ガールズ向けの雑誌を集めて、お化粧やヘアスタイルの記事を読んだり、写真の中の水着姿の女の子たちに自分がくわわっても自然にとけこめると思ったり。くすくす笑いながら「メリッサよ」なんて女の子みたいに名乗る。それはジョージが鏡の中の自分に話しかける時の名前です。女の子みたい、ではなく、女の子なのです。おかしいのは男の子の身体の方です。トランスジェンダーの少年ジョージを描く、いや、少女メリッサを描く物語。「ありのままの自分」でいることが推奨されるご時勢ですが、自ずと限界があります。いや、その限界は受け入れる側にあるのか。自分はどこに限界を設けてしまう人間なのか。そんな度量も問われる、スリリングな読書を是非。

ジョージの心を強く突き動かしたのは、学校の劇で、シャーロットの役をやりたいという衝動です。E・B・ホワイトの『シャーロットのおくりもの』を読んで、クモの女の子であるシャーロットにジョージは深く思い入れてしまったのです。しかし、劇のシャーロット役のオーディションに出ることでさえ、先生は良い顔をしません。何故って、それは女の子の役だからです。ジョージのママもまた、ジョージのそうした傾向について危惧を抱いています。隠れてママの洋服を着たり、お化粧道具をいじっていることにママは気づいています。「ゲイはのりこえていける」でも「女装するタイプのゲイはどうなのか」というのが、ママの意識の限界です。ゲイではなく、女の子なのだというところから、ジョージはママに納得してもらわないとならない。トランスジェンダーとして、手術やホルモン治療を子どもが受けるには親の許可が必要なのです。ママの理解を得るために、ジョージは友人のケリーの力を借りて、思い切った作戦を実行します。 ジョージが女の子である、ということをママが心の底から受け入れられたかどうか。物語は、それぞれの良識の限界を突きつけられた大人の葛藤も描き出していきます。

物語の中で、校長室に貼ってあった『ゲイ、レズビアン、バイセクシャル、トランスジェンダーの若者が安心してすごせる場所を』と書かれた標語をジョージが見て、どこに行ったら自分が安心して過ごせるのかと考える場面があります。学校教育の中ではこうした子どもたちへの理解と支援が強く標榜されている昨今です。日本でも2016年に文科省がLGBTなどの「性的マイノリティ」の生徒にどう対処すべきかという教職員向けのパンフレットを公開しています。このあたり、世の中の動きはかなり進歩的になってきており、子ども向けのLGBTに関する刊行物が増え、児童文学でもまたLGBTを扱った多くの作品が発行されています。とはいえ、大人側の想像力の限界ということを、やはり考えてしまいます。「ノーマルな側にいるつもり」という無意識な奢りからの偏見を払拭し、想像力の限界を越えるにはどうすべきか。特に良識派を自認している人たちは注意を要するべきかと思います。この物語の終わりの方で、ジョージがケリーの洋服や下着を借りて、女の子メリッサとして街に出る場面があります。この時のときめく気持ちと心の震えを描いた場面が秀逸で、かなりグッときます。これも題材の特異性が際立っていますが、児童文学作品として、子どもの心の動きを実にビビットに捉えた良作かだと思います。