鬼の橋

出 版 社: 福音館書店

著     者: 伊藤遊

発 行 年: 1998年10月

鬼の橋  紹介と感想>

非常に端正な作品です。現時点で児童文学ファンタジー大賞の、これまで二作しかない大賞作品の一作(もう一作は梨木香歩さんの『裏庭』)。1996年の作品ですが、太田大八さんの挿絵には、まるで1960年代の本のような錯覚に陥ります。平安時代。平安遷都から数十年がたった京の都。貴族官吏の息子である小野篁(おののたかむら)は十二歳。文官として、勉学の才でその身を立てていかなければならない家柄でありながら、このところ彼は、将来に希望を見いだせず、すっかり気が抜けた状態となっています。それというのも、可愛がっていた異母妹の事故死を、自分の過失によるものと思いくたし、その慙愧の念に押し潰されそうになっていたのです。京都市中をもの想いにつかれて彷徨い歩く篁は、二つの不思議な出会いを経験することになります。妹が事故死した井戸からつながる黄泉の回廊に迷い込んだ篁は、二匹の鬼に襲われ、あわやというところを、強い武人に助けられます。それは数年前に亡くなった、征夷大将軍、坂上田村麻呂。蝦夷を平らげ薬子の乱を平定したこの勇猛な将軍は、死んでなお帝の命を守り、黄泉の世界から鬼どもが都に這い出ないよう鎮護の任にあたっていたのです。そして、もうひとつの出会いは五条橋のたもとに住む浮浪児の少女、阿古那。人足であった父親が作業中に事故死したこの橋の下で彼女はひとりで暮していました。阿古那に亡き妹の面影を見る篁。裕福な貴族の師弟として育った篁は、庶民の生活を知らず、阿古那と衝突しながらも次第に親しくなっていきます。

大雨の日、阿古那が親とも慕う五条橋の崩壊を一人の屈強な男が救います。非天丸と名乗るその男、実は鬼。しかし、冥界で坂上田村麻呂将軍に、片方のツノを切り落とされ、鬼としての力を半分失っていました。そして、鬼の心も失い、人間の心が彼には芽生えはじめていたのでした。朴訥だけれど優しい非天丸。しかしその身体は鬼のもので、鬼の食するモノ、しか食べることはできません。ツノを亡くした鬼と、親を亡くした少女は、川の下で睦まじく一緒に暮らしはじめます。非天丸を信用できない篁は、二人を苦々しい思いで眺めつつ、己のもの思いに沈んでいきます。父は、そんな篁をふがいなく思い叱咤します。宮仕えで処世を送る父の苦労、貴族の家の妻としての哀しみを抱く母の思い。そして、浄土に行くことができないまま、冥府の回廊で闘い続け、休まることのない坂上田村麻呂。そして、阿古那と非天丸。少年、篁が、それぞれの心の哀しみに気づき、考え深く、強く成長していく姿がとても好ましい一編です。心が折れたり、なけなしの勇気を振り絞ったり、少年の日の苦衷と、そこから彼が抜け出していく姿が実に爽やかでした。

小野篁といえば、平安時代を代表する文人ですが、冥府を行き来していたという伝説もある不思議な人物。厄病でみまかった貧民の屍が川を流れていく凄惨なリアルをたたえた京の都は、冥府との回廊がすぐ間近にあるファンタジー空間でもある。そうした借景に繊細な少年の心の揺れが捉えられる、実に引き込まれる作品でした。伊藤遊さんの第二作、『えんの松原』もまた、平安時代を舞台にしたファンタジーで、これもまた心躍る作品。ヨーロッパ伝承を基にした物語『クラバート』を思わせる漆黒のイメージは、ぬばたまの黒いカラスの羽の色、なのです。こちらもお薦めです。