あした、また学校で

出 版 社: 講談社

著     者: 工藤純子

発 行 年: 2019年10月

あした、また学校で   紹介と感想>

興味深い論点のある物語なのですが、まずは物語の事実関係を辿っていきたいと思います。地域の小学校が集まって行う大縄跳び大会に毎年、参加している宮舘小学校。二年生の将人もエントリーしていましたが、朝練に参加しなかったことで、指導を担当する荻野先生から他の生徒たちの前で面罵されます。周囲から見ても可哀想なほど怒られていたという証言を聞き、兄である六年生の一将は心配して、弟のいる教室に向かいます。怒られた原因は「できない子は朝練にきなさい」という先生の言葉を、自分の中では他の運動と比べて「縄跳びができる」と思っていた将人は、自分への指示だとは受け取らなかったようなのです。実際、将人は運動が得意ではありません。先生に怒られたことをきっかけに、ほかの子たちから大会に出るなと言われ、将人はふさぎこみ、その後、学校に行けなくなってしまいます。弟が不登校になったことを、同じ代表委員の咲良に相談した一将は、正義感の強い咲良に促されて、先生の指導方法に問題があると代表委員会で提起することになります。しかし、他の委員からは、下手なのに大会に出ようとするのがいけないという意見が優勢です。咲良は、勝つことがすべてで、人を傷つけても構わないという、そんな考えには抗いたいと思っていました。誰のために学校はあるのか。その疑問が大きくなっていきます。咲良と一将は荻野先生に直接、話を聞きますが、簡単に受け流されてしまいました。何を問題だと考えるのか、先生との間にすれ違いがあるのです。一将と将人の母はこの問題をPTAで相談しますが、先生たちに、ただ形ばかり謝られるだけで、本質的なことを理解してもらえません。学校に行けるようになることがまず先決と言われ、何故、将人が傷ついたのかは理解されない。咲良と一将は、学校は誰のためにあるのかという疑問を抱きながら、より本質へと迫っていきます。

小学生のスポーツは勝つことが目的ではありません。大縄跳び大会もチームワークを育てることを主旨としていたはずなのに、できるできないで人を疎外して、劣等感を抱かせるものになってしまっています。教師は自分の指導力を見せるために、成果を競い合う。厳しく指導することを生徒のためだと思い込み、自分を正当化してさえいます。できない人間や、弱く、痛みを感じている子どもたちに寄り添うことなく、組織としての学校の体面ばかりを考える。勝負にこだわるあまり子どもたちの心を傷つけても気づかない。そんな学校のあり方を、物語は問いただしていきます。みんなが気持ちよく生活できることよりも他に大切にすべきことがあるのか。学校は僕たちのものなのだから、僕らの声を聞いて、もっと良くしてほしい。そんな単純であたりまえな訴えが届かないのはなぜなのか。さて、ここからがシンキングタイムです。この物語が強く訴えるものを受け止めて、読者もまた考えることを求められています。違う立場の人たちの多角的な視点が、この物語には並走しています。利害は拮抗しています。それぞれの正しさをどう認め合うかという課題はあるのですが、概して、人は自分の正しさに奢り、偏りがちです。どこかに傷ついている人間がいないかを考慮すること。自分には死角がある、と絶えず意識することは、車の運転以外でも有効なはずです。他者への想像力を養うためにも読書はあるのですが、これも、課題だとは思わず、楽しみながら、というのが肝要ですね。

それにしても、人は話を聞いてくれないものです。とくに自分の意識の外にある感覚に対しては、関心を向けようともしないものです。とはいえ、人に適当にあしらわれていると思ったら、闘うべきだと思います。なにをやっても無駄だとか、世の中なんてそんなもの、なんて諦めてしまわないことです。僕も普段は穏便に済ませたい方なのですが、民事訴訟を起こしたことがあって、和解するまでに五年程度を要しました。この物語の学校側の態度のように、形ばかりの謝意の誠意のなさに、業を煮やしてのことでしたが、次第に相手の考え方についてわかってきたことがありました。それは、誠意もないが、悪意もないのだ、ということです。つまりはこちらの痛みには関心がないし、なんでこちらが怒っているのかさえ理解できないのです。どちらが正しいのか決したいとか、勝ち負けを決めたいわけでもなく、ただこちらの気持ちをわかって欲しいという願いでしたが、人の心に食い込むことは難しいと思いました。首根っこを捕まえて振り回さない限り気づいてもらえないのです。途方に暮れもしましたが、それでも少し、相手の心に刻めたこともあったのかな。この物語には、他の人が抱いている気持ちを意識させ、気づきを与える力があります。自分の心の隙や、考えの及ばなさ、脇の甘さも思い知らされます。そして、理屈や条理を越えた「母親目線」こそが、すべてを超越してしまうものであり、理を詰めていくこの物語の裏をかく真理であるということも、ふいをつかれます。親から子どもへの愛情は不条理で、闇雲で構わないし、厳しく接するべきなんて正しさは蹴飛ばしておいて良いよね、と思うのです。学校が誰にとっても有益で、愛のあるコミュニティになりうるか。愛よりも面目の方が大切な人と、目の高さを合わせるにはどうしたら良いのでしょうね。拡大解釈ですが、この物語は終局で「権威に解決を委ねる」という、所謂、デウスエクスマキナ形式を採用しているのが面白いところです。ギリシア悲劇以来の作法で、シェイクスピアにも見られるものですが、最後に調停者が現れて一喝するわけです。宮沢賢治の『猫の事務所』のライオンみたいなものです。己の魂に喝を入れたい方に、他者への想像力を拡げたい方に、お薦めしたい作品です。