ある日、透きとおる

出 版 社: 岩崎書店

著     者: 三枝理恵

発 行 年: 2019年10月

ある日、透きとおる  紹介と感想>

主人公が目覚めると記憶喪失、というパターンは物語の常套で、そこから遡って過去にあったことが紐解かれていくミスリアスな展開は面白いものです。この物語でも主人公の意識が戻ると、記憶が失われており、自分が誰なのかわかりません。手がかりはなし。自分の顔も見知らぬものどころか、身体自体が失われていて、ただ意識だけの存在となっているのです。何処へでも好きな場所にいけるけれど、自分が何者なのか、まったくわからない。主人公は食べることもなく、眠ることもなく、空中を浮遊して、ただ同じ町を彷徨い続けています。無論、誰にも気づかれることはありません。何日間も経過した、ある日、中学校の校庭に生徒がいることを主人公は見つけます。どうやら今は夏休みでクラブ活動のために登校してきた生徒たちのよう。そこで主人公は「知ってる」音を聞くのです。3階の教室から聞こえてきたその音は、木琴。マリンバという楽器の名前を主人公は知っていました。自分が知っているという感覚を確かめながら、主人公は吹奏楽部の生徒たちが練習する中学校の教室へと入っていきます。しかし、不意に驚いてしまうことがあり、声にならない声をあげた主人公に、話しかけてくる人物がいました。「彼」だけは、主人公がそこにいることに気づいていたのです。ワクワクするような奇想天外な展開に驚かされ続ける物語です。当初は大島弓子さんの中期のコミック作品のような、とも思ったのですが、後半はきっちりと児童文学作品として子どもたちの心の揺らぎを捉えていく確かさを実感できる作品となっていきます。是非、僕がネタバレしてしまう前に読み始めてください。この読書の高揚感を是非。

さて、まったく自分の過去に遡ることができないまま、主人公は目の前にいる中学生たちの動向を、空気のような存在として見守り続けました。吹奏楽部の中学生たちそれぞれの個性や人間関係が、次第に主人公にもわかってきます。主人公が最初に目を留めたチームは、吹奏楽部の中でも楽器がうまくない子の集まりでした。顧問の先生は、あえてできない子だけを集めてチームを組ませて、できれば部をやめさせようと仕向けているようなのです。リーダータイプだけれど暴走しがちな、ひかり。大人しくいつも一人でいる、どこか不器用なところのある沙夜。快活で関西弁を話す江理子。主人公は特に、沙夜に「知ってる」感覚を覚えて、家までついていき、彼女が悩んでいることを知ってしまいます。沙夜は、同じ吹奏楽部の別チームにいる積極的でてきぱきとした夕那と以前は親しくしていたものの、今は仲違いしている様子です。二人の関係性から主人公は次第に、ある予感を覚えます。色々な情報のピースが集まり、その「答え」に主人公はたどり着くことになるのですが、ここからが実に恐ろしいところなのです。

当初、この物語のタイトルから、主人公が透明人間になるお話なのかなと想像していました。アンドリュー・クレメンツの『ミエナイ彼女ト、ミエナイ僕。』という秀逸な作品があり、同工異曲もまた期待できるかと思ったのですが、全然違うものだったのは嬉しい驚きです。『ミエナイ彼女〜』は、ある朝、突然、透明人間になってしまって困惑する少年(ミエナイ僕)の物語なのですが、彼が自分の存在を盲目の少女(ミエナイ彼女)に気づかれて、パートナーシップを得るあたりから、より面白くなっていきます。究極の状況で理解者を得ることの心強さと、平時では得られない心の交流が素敵なのです。この物語も透明な主人公の存在を感じとれる人物が登場します。主人公は意識だけの存在であるため、その「感じ方」や「考え方」が唯一の主体性であり、アイデンティティです。その心根が素直で実直なことに読者は気づいているはずですが、主人公自身に(そして読者にも)、その個性の美点を気づかせるのは「彼」の存在です。この関係性も良いですね。そして、この主人公の主体性こそが、物語のキーであるという作品構造の見事さ。読者は、主人公の「語り」により、主人公がどんな人であるのか次第に理解していくことで、この物語のテーマに近づいていきます。すべてが明らかになった時、人間とはどうあるべきなのかを考えさせられるのです。そして主人公のたしかな成長も。しんやゆうこさんの装画やイラストのイメージが、物語との不思議なハーモニーを醸し出しており、この異色作にもたらした効果は大きいですね。