夏の記者

出 版 社: 講談社

著     者: 福田隆浩

発 行 年: 2010年10月

夏の記者  紹介と感想>

刊行当時に読んで、かなり強い印象を得ていたのですが、考えがまとまらず、レビューを残してなかったことが惜しまれます。現在(2023年)、十年以上を経て再読したところ、社会状況の変化によって、この作品の「攻めていた」あたりが、随分と緩和されてしまったのではないという気持ちになっています。この物語、大人の事情と子どもの正義がぶつかり合います。結果的に子どもの正義が勝利して、大人は社会的責任を問われることになります。ああ、ここまで大ごとにしてしまうのか、というような、やや行き過ぎた印象を初読の際には感じたのです。当時だとまだ大人側の対応も社会的にありそうな話だったのです。ぎりぎり仕方がない、という同情の余地があったわけですが、現在のコンプライアンスに照らすと、完全にNG案件になります。企業や組織に求められる「社会的正しさ」のハードルがかなり上がっているのです。それを企業が実践していないとダメージを受ける時代です。作者の『ひみつ』と同じく、自分自身の過去のズルさと対峙して、ここで正しい行為に邁進する主人公の決意が漲る物語です。それによって、無難に過ごそうとしていた人たちの心に潜んでいた罪悪感や、正義の残滓に火が灯されるあたりも共通するところがあります。「子ども記者」が自分自身への葛藤を超えて、正義の鉄筆をふるう物語。その先には、そこそこのトラブルが生じます。「ことなかれ」という、リスクヘッジに逃げがちなものですが、それは人として豊かに生きる上で、大きなリスクになるということも痛感させてくれます。難を避けるには、イージーな方に逃げずに、都度、適正に対処することが求められるという、ビジネスケーススタディの教訓も得られる一冊です。

新都新聞の五十周年企画は、夏の期間だけの臨時の特派員記者「夏の記者」を地域の小学生から十名募集するというものでした。選ばれた子どもたちは、記者章とデジカメを貸与され、自由に取材をすることができ、新聞に記事が掲載ああれます。小学五年生の佳代もこの企画に応募して、選考を勝ち抜き「夏の記者」に選ばれます。他の子たちの記事が掲載されていく中、夏休みが二週間過ぎても、佳代はまだ一本の記事の掲載もないままの状態でした。なにか記事になる題材はないかと探し歩く佳代の目の前で、事件は起きます。去年オープンしたばかりの市営の総合スポーツ施設で、若い男性がガラスに石をぶつけて立ち去る場面に遭遇したのです。はっきりとその犯人の姿を見なかったものの、周囲に聞き込みをすると、施設はどうやら連続してこの人物からの被害にあっているらしい。佳代は、この事件に興味を持ち、記事にできるのではないかと調査を始めます。その男性が破いていった掲示板の貼り紙にヒントがあるのではないかと施設に尋ねた佳代でしたが、施設の館長が見えすいた嘘でごまかそうとしていることに気づき、より疑念を深めていきます。どうやら、施設の十万人目の来場者の記念イベントに何か問題があったことを佳代はつかみ、その来場者の少年や表彰をした市長にも取材をしようと試みます。しかし、そのことが新聞社に施設から苦情として寄せられ、佳代は「夏の記者」の資格を剥奪されることになるのです。十万人目の来場者は別の人であったのに、そのまま表彰するには不都合がある子どもであったため、施設も新聞記者もグルになり、別の子どもを十万人目の来場者に仕立て上げていたという事実に到達した佳代は、傷つけられたその子のために、渾身の記事を書き新聞社に送りつけます。果たして、大人たちは、この正義の鉄筆にどう対処したのか。大人の事情と子どもの正義が攻めぎあう、実に攻めている物語です。

佳代の心の事情もまた複雑です。「夏の記者」の選考試験の応募論文を、他の人が書いたものを真似してパスしたことを、同じく「夏の記者」に選ばれた優秀な少女、真鍋純子に見抜かれ、佳代はその悔しさから、なんとしても彼女を見返したいと思っていました。要は、佳代もまた清廉潔白というわけではないのです。真鍋純子もまた、いくつかの記事を掲載しながらも、事実を曲げて伝えてしまったことがあり、後悔していました。二人の心に通じ合ったものは、だからこそ、ここから真実を伝えなければならないという想いです。ただ真面目で頑なに正しさを貫くのではなく、逡巡し、自分を見つめ直した上で、やはり為すべきことを為そうと思ったのです。協力して、事実を追及していく二人がたどり着いた真相は、十万人目に選ばれていたのが、特別支援学校に通う少女であり、彼女がパニックになったために表彰の対象から外されたという事実です。そのことを知り、怒った少女の兄が施設に嫌がらせをしていました。スポーツ施設は、佳代の追及を知り、少女の兄を懐柔し、新聞社に圧力をかけ、新聞社の記者もまたこの事実を隠蔽し、佳代のやろうとしていることを妨害するのです。市長が表彰をする式典を無難に進行させようとしたスポーツ施設と、それに協力した新聞社。パニックになる少女を前にどう対処するのが正解だったかと言われると、咄嗟の判断には苦しむところもあり、「大人の事情」を汲んでしまうところもあります。とはいえ、そこに差別の意図はなかったかどうかは別として、事実として、この方法をとったことは、現在の視座からは許されないでしょう。物語は大人たちに反省を促し、子ども記者の誠意を握りつぶすことはしません。ただ、大人たちはそれなりの責任をとらされることになります。大人として、社会人として、どう舵を切るべきか迷うことはあります。子どもたちに見せるべき背中にはコンプライアンスの八文字が浮かんでいて然るべきです。それはそうなのです。刊行当時は、やや、やり過ぎかと思った物語なのですが、良識って変わるなあと実感した再読でした。