魔女ラグになれた夏

出 版 社: PHP研究所

著     者: 蓼内明子

発 行 年: 2020年02月

魔女ラグになれた夏  紹介と感想>

この本の奥付の初版一刷日付は2020年3月3日。2020年の東京オリンピックの延期が決定したのは同年の3月24日です。オリンピックが開催されている夏を描いたこの物語は、歴史改変SFのように、来なかった方の世界線になりました。これは作者も出版社も制作時点では意図していないことだったのでしょう。もっとも物語の舞台は青森市、オリンピックの喧騒は主にテレビから聞こえてくるもので、地元の人たちにとっては、ねぶた祭りの方が大きなイベントです。とはいえ、2020年には、ねぶた祭りもコロナ禍で例年通りには開催されなかったことが歴史的事実であって、この物語に描かれている世界は、「ありえないもの」となってしまいました。まあ、こちらの物語の方が、ごく普通の世界であったはずなのです。皆んなが距離を保ちながら、マスクをして猛暑に耐えている夏なんて、現実の方がどうかしていますよね。ごくあたりまえの世界を舞台にした、穏やかさとキレのあるユニークなお話が、結果的にすごく特殊な位置づけの作品になってしまったのは残念なことです。この物語、オリンピックイヤーが四年ごとにやってくることがキーになっているため、一年延期すると展開に無理が生じるので、変えようもないはずです (この文章を書いている2020年9月時点では東京オリンピックは一年延期ということになっています)。何かのきっかけで、人間は違う未来を迎えることになります。そんな真理を暗示する不思議な掛け算が起きたのは不幸中の幸いなのだけれど、ちょっと複雑ですよね。ごく普通の日常の中の心の揺らぎや、人と人の距離感や関係性の捉え方にセンスが光る作品です。タイトルの「魔女ラグ」は、主人公である小学六年生の少女、岬が好きだったアニメキャラクターです。岬は魔女ラグの「強さ」に憧れを抱いていました。自分がその「魔女ラグ」になる夏が巡ってきます。覚悟を決めた岬は、これまでの自分を超えていくきっかけをつかみます。岬が自分の世界を変えていく予感がここにオーバーラップする、不思議な物語空間が出来上がったので、結果オーライなんですが、なんだか複雑です。

あてねちゃん、という名前で、岬が四歳年上の姉の富美のことを呼んでいるのは、富美が自分の古臭い名前を嫌っているからです。四歳違いの三姉妹は、それぞれオリンピックの年に生まれました。長女の光希はシドニー大会、次女の富美はアテネ大会、三女の岬は北京大会。そして、今年、東京大会が開催される2020年であることは、オリンピックイヤーに生まれた姉妹にとって、なんとなく意識する区切りの年です。まあ、家族の食卓の話題になったり、商店街のおじさんに話のネタにされる程度ではあるのですが。主人公である小学六年生の岬は、この頃、高校一年生の姉、富美の機嫌が悪いことを感じとっています。父親と富美が口論になるのは、富美に不満が蓄積しているからです。三姉妹の真ん中であることで、親に関心を寄せられていないというのはありがちなこととして、姉妹で一人だけ古臭い「富美」なんて名前であることも納得いかないし、行きたかった私立高校を断念させられて、二次志望の公立に進学せざるをえなかったことも不満の種のようです。さて、この夏、大学進学で仙台市で暮らしている長女の光希も帰ってきて三人姉妹が揃います。一方で富美は、秘密裡に、この夏休みに一人で家を出て東京で過ごすことを画策していました。オリンピックで沢山の外国人がやってくる東京で、自分の英語力でのコミュニケーションを試してみたいと思っていたのです。書きを残して出かけたとはいえ、家族は心配します。そして、その家出のさなかに父親の具合が悪くなり、入院して手術をしなければならないなんて騒動も持ち上がりますが、おおよそは穏やかな2020年の夏の家族の物語です。大丈夫、父親も無事に生還できますので。

さて、大胆な行動を起こしていくのは、次女の富美ですが、物語の主軸はその行動を見守る三女の岬の視線にあります。「怒れる姉」と父との「カクシツ」を傍目に、その展開にソワソワとする岬。小さな頃はちょっと高圧的なところのあるコワい富美に従っていただけの岬も、今は富美の複雑な心中を感じとりながら、どこか見守るようなスタンスになっています。そして、富美が何かをしでかすではないか、と岬が覚えた胸騒ぎは、案の定、家出という形で明らかになります。自分では行動をおこさない、大人しい岬の心の中にも声が溢れています。そんな岬のストレス発散は、同じ商店街に住む唯一の同い年の幼なじみである少年、要に、家であったことを、まるで再生するかのように細かく話して聞かせることでした。岬が買ってきたアイスを食べている間、要は黙って話を聞くという、不思議な「契約」が二人には結ばれています。このちょっとクールな少年、要とのやりとりが非常に面白いのです。物語の終盤に、岬は要から、富美に抱いている気持ちについて「言いたいことがあったら、はっきり言え」と叱責されます。ただ聞く側だった要が、岬にアイスを買ってきて、言う側に回るという、このちょっと変わった友人関係も面白いところです。読者としても、一歩引いてばかりの岬の煮え切れなさにしびれが切れてくるあたりなので、痛快でした。岬が小さな頃から富美のことを怖がりながらも、その強さに憧れていたことや、やはり富美のことが好きなこと。そして、この夏、富美にすすめられてショートカットにした自分に、魔女ラグの姿を重ねて、勇気をもって行動しようと一歩を踏みだす岬。そんな物語が、そこはかとないユーモアとともに語られていきます。定石どおりではなく、どうにも拍子抜けするような展開に驚かされながらも、楽しく読めてしまう不思議な作品です。さて、実際には、オリンピックもねぶた祭りもなかった夏を、この姉妹はどう過ごしていたのだろうか、なんて想像しています。その時、富美や岬に、この物語のような転機はきたのだろうかと思ってしまうのです。SFで言うところの「バタフライ効果」のように、ちょっとした違いで未来は大きく変化します。いや、今年、オリンピックが開催されなかったことは多くの人の人生を変えたのでしょう。もちろん、ねぶた祭りがなかったこともだけれど。やっぱりそんなことを考えてしまう物語でしたね。