蝶の羽ばたき、その先へ

 

出 版 社: 小峰書店

著     者: 森埜こみち

発 行 年: 2019年10月

蝶の羽ばたき、その先へ  紹介と感想>

この物語が与えてくれる第一の教訓は、「身体の具合がおかしかったら直ぐに病院に行け」ということです。とはいえ、これが難しい。自分も先日、風邪をこじらせてからようやく病院に行きましたが、平癒するのに時間がかかって、早期治療の大切さを思い知りました。医者に言われたくない台詞、断トツの一位は「どうしてこんなになるまで放って置いたんですか!」なのですが、色々と心の事情はあって、なかなか病院にいけないことは、ご理解いただけると思います。いや、自分が単にグズなだけなんだけれど。次にこの物語が示唆するのは、セカンドオピニオンの重要性です。躊躇なく複数の病院で診療してもらうべきなのです。病院や医師には得手不得手があり、最初に行った病院がベストとは限りません。誤った診断が下される場合もあります。また、なるべく専門性の高い大病院に行くことも賢明です。さて、その次にくるのが、「手遅れになった場合、どう生きていくか」です。とりかえしがつかない状況を前にして、どうしたらいいのか途方に暮れてしまうし、ここまでの展開を振り返って、もっと早く対応できたはずだという後悔にも苛まれます。とはいえ、過去を悔やんでいても仕方がないので、「手遅れのまま」強く生きていく未来を模索しなければなりません。この物語は、そんな運命が中学二年生の女の子の身にふりかかるという、非常に重いお話です。無論、凹みます。そして、そこから立ち上がる姿が読者に与えくれるのは、教訓だけではなく、もっと強く心を揺さぶるものなのです。 

中学二年生の新学期の日の朝、結は突然、耳鳴りに襲われます。ずっと続く耳鳴りを我慢しながら、なんでもないふりをしてふるまっていた結。しかし、ひと月経っても止まない耳鳴りに、ついにお母さんに症状を打ち明けて、耳鼻科に連れて行ってもらうことにしました。医師の診断は、聴力が落ちているけれど、様子をみようというものでした。点滴をして、何度か検査を受けても一向に良くなる気配はありません。お母さんはついにもっと大きな病院に結を連れて行きます。そこで検査を受けてわかったのは、早期治療を必要とした突発性難聴であり、もう聴力の回復は難しいということでした。耳鳴りは続き、片耳がほぼ聴こえない状態で、もう片方の耳も同様の状態になる可能性もゼロではない。補聴器もこの場合、効果がなく、状況が改善されないまま、ずっと様子を見ていなければならなくなった結。人は、そんな自分をどう受け入れていけばいいのか。また、そんな自分を人にどう受け入れてもらうかも大きな問題です。自分の耳の状態を同級生には知られないようにしている結。気を使って会話をしてもらって自分は楽しいのか、人は楽しいのか、結は自問を続けます。しかし、学校で人の会話が十分に聞こえないために沈み込んでいた日々に、偶然、手話で会話をしながら笑いあう人たちを見かけたことから、結は公民館で活動している市の手話サークルに参加するようになります。そこでの出会いが結の世界を少しずつ変えていくことになるのです。 

一緒に仕事をしていた同僚の中で、何人か片耳が聞こえないという方がいました。正面で向き合ってお話しする分には支障はないのですが、距離や向きの関係で言葉を聞き取ってもらいにくいことはありました。ご本人たちも気にされているようで、大抵、最初にご自分の状況を説明いただいていたと思います。コミュニケーションは、なんらかの方法で補えるものなので、意識して気づかえれば、なんとかなるものです。ただ、意識してもらうことを人にお願いしなければならない方たちの気持ちについては、あらためて考えさせられました。小さな勇気がいつもそこには必要だったのかも知れず、これまでに越えてこられた道のりに対して感慨深く思いました。一方で、この「意識すること」は、気づかせてもらわないとなかなかできないものです。この物語の中でも、病院で医師にマスクをしたまま会話をされると、唇の動きが見えないため、耳の不自由な人が理解しにくいという話が出てきます。それを病院の人にも意識してもらおうという活動を結は行います。一対一で、面と向かって、お願いすることには抵抗があります。ただ、そうした意識は啓蒙活動をすることで拡がっていきます。今の自分の立場だからこそ人に伝えられることがある。結は失ったことに落ち込み、もがきながらも、世界を広げていくことで、新しい自分を見つけ出していきます。結の活動する姿を見て、彼女が抱えていた問題を知った同級生たちにもまた、結をどう受け止めていくのかという新たな心のドラマも予感させられます。キレのある文体と描写力にストーリーが裏打ちされた作品です。バスケットの場面のスピード感など、読むことの快感もあります。ということで、快進撃を続ける俊才、森埜こみちを体感せよ、と書いて終わります。