フェリックスとゼルダ その後

Then.

出 版 社: あすなろ書房

著     者: モーリス・グライツマン

翻 訳 者: 原田勝

発 行 年: 2013年08月


フェリックスとゼルダ その後  紹介と感想 >
『フェリックスとゼルダ』の続編です。前編との二作で、物語が、一旦、完結するので、まとめて書きます。と言いつつ、どう書いたらいいのか非常に戸惑っています。動揺しているのです。かなり、大きく気持ちを揺さぶられる物語です。何故って、救いがごく僅かしかないからです。救いの絶対量が足りなくて、途方に暮れているからです。ここから気持ちを立て直すにはどうしたらいいのか。その答えを探しながら書いていきます。第二次世界大戦下のポーランド。フェリックスは両親に孤児院に預けられていました。両親が迎えにきてくれるのを心待ちにしながら、すでに三年八カ月の月日が経ち、フェリックスも十歳になっていました。ある日、孤児院にやってきたのは、フェリックスの両親ならぬナチス・ドイツの兵隊たち。彼らがイディッシュ語(ユダヤ人の言語)の本を焼き払うのを見たフェリックスは、書店を営んでいる両親に警告しなくてはならないと思いたち、孤児院を抜け出します。実はフェリックスが孤児院に預けられていたのは、ユダヤ人の両親がフェリックスを守るための算段だったのです。かつて両親が書店を開いていた町はナチスに制圧されており、住んでいた家も人手に渡っていました。両親はナチスから逃げることができたのか、それとも捕まってしまったのか。それさえわからないまま、両親を探すフェリックスが見たものは、ユダヤ人が平然と虐待されている恐ろしい世界です。やがて、フェリックスは一人の女の子と遭遇します。この子の両親は殺されていましたが、この六歳の女の子はまだそれに気づいていません。彼女の名はゼルダ。フェリックスはゼルダを連れて、あてどなく彷徨います。どうすれば、両親が見つかるのか。それ以前に食事にありついて、眠るところを確保しなくては。時に親切な大人に助けてもらえることもありますが、そうした良い大人は残念ながら無力で、やがて、圧倒的なナチスの暴力に屈せざるを得なくなります。死の列車に乗せられ、死の収容所に連れて行かれる車上から、決死の覚悟で逃げのびたフェリックスとゼルダ。ここで前巻は終わり、期待と不安を抱かせつつ物語は続編へと続きます。

グライツマン作品はいずれもそうですが、かなりの危機的状況でありながら、そこで発揮されるユーモアが際立っています。この作品でもフェリックスとゼルダの軽妙なやりとりが非常に面白いし、フェリックスのボケ方のセンスも光っています。世の中は暗黒に塗り込められているのに、どこか楽観的な印象を抱かされるフェリックス。それはフェリックスが深く両親に愛されていた子どもだったからかも知れません。だから、フェリックスはゼルダにも自分の両親のことを悪く思って欲しくないと願っていました。ゼルダのペンダントに入っていた両親の写真。父親はナチスの制服を着ています。ポーランド人ながら、ナチスに協力していた人物であったため、レジスタンスに殺害されたのです。ナチスの蛮行を知るに従い、ゼルダは両親を悪い人間だと思うようになっていきます。そんなゼルダに両親の良いところを思い出させたいフェリックス。二人は過酷な逃避行を続けながら新しい家族としての信頼関係を築いていきます。この続編では、ゲニアという女性が二人を匿ってくれます。ユダヤ人を捕まえて引き渡せば二百ズロチとウォッカ一本の報奨をもらえる。そんな世界でも、ユダヤ人を守る人たちがいます。しかし、もし見つかってしまったのなら、匿った人間も命がないのです。二人は髪を染め、ウィルヘルムとヴィオレッタと名前を変え、ゲニアと一緒に農家で暮らしますが、平穏な日々も長くは続きません。ナチスの脅威と、ユダヤ人を迫害することを当たり前のこととして受け入れている市井の人々。恐怖の時代の中で、豊かな機知を持った少年はどうやって生きのびていったのか。この続編は、非常に重い結末を迎えます。ただフェリックスの人生は続いていきます。その未来に光明が差すことを願って止みません。

日本ではほとんど訳出されていない、リッチマル・クロンプトンという実在のイギリスの女性作家の作品をフェリックスは愛読しています。そのことでヒトラー・ユーゲントの少年とも微かな友情が芽生えます。書店の息子であるフェリックスは読書が好きで、自分でも物語を作っています。それを人に話して聞かせることで、時に窮地を乗り越えていきます。フェリックスは物語を語り、ゼルダの心を慰め、自分自身をも癒してきました。物語の力。それは現実の前には微力ですが、不合理に抗い、人の心を救いうるものです。この作品の終わりには深い哀しみが待っています。フェリックスは、怒りをもって闘うのではなく、自分の愛しい人について「つたえていく」ことを胸に誓います。改めて、この物語の救いの少なさを思います。しかし、いつかフェリックスは、これまでのことを物語として物語っていく、そんな未来の可能性が希望として残されています。理不尽な人生の辻褄は、決してあうことはないし、帳尻はマイナスのままです。それでも、物語によって、伝えられるものがある。とはいえ、途方に暮れてしまいますね。ホロコーストを描く作品は沢山あり、多くの物語によって語り継がれています。この物語はユーモアで中和しながら、その凄惨さをあますことなく伝えてくれます。歴史的事実として知ることよりも、物語として臨場感をもって感じることの意味は確実にあります。一方で、ユーモアと想像力によって、人間が窮地を生き抜いていく力強さもここに感じることができます。悲しみと怒りで人生を覆いつくされないこと。自分の心を救うのは、自分次第かも知れません。いや、まずは平和を願います。本当に。