マルセロ・イン・ザ・リアルワールド

Marcelo in the real world.

出 版 社: 岩波書店

著     者: フランシスコ・X.ストーク

翻 訳 者: 千葉茂樹

発 行 年: 2013年03月

マルセロ・イン・ザ・リアルワールド  紹介と感想>

この物語には「アスペルガー症候群」という「診断名」が登場します。主人公の十七歳の少年、マルセロは、この症状の特徴に近い状態であるという設定です。前回読んだ際には、まだ意識していなかったのですが、現在(これを書いている2021年)、アメリカ精神医学会ではアルペルガー症候群という分類はなくなり「自閉スペクトラム症」に統一されたという話を聞き及んでいて、こうした表現も過去の時代のものになったかという感慨を抱いています。この表現には、彼が正常と障がいのあわいで、どこにも置かれていない状態であることも示唆しています。発達障がいという広汎な表現の方が通りが良いかもしれませんが、日本でも次第にこうした症例についての理解が進んできて、数年前とは社会的な受け入れ方も変化してきていると感じていますが、一方で「発達」や「アスペ」という蔑称で人が揶揄されることもあり、一元的な見方しかされていないことも事実です。実際、前述したような医学界での変化など、ある一時点の考え方や認識が、数年後には通用しなくなっているということもあります。人は一過的な知識で、ある状態を一つの定義や病名に押し込めてパッケージしてしまいがちです。ただ、その理解は一局面に過ぎず、実相はより複雑で、とらえようのないものです。診断名でさえ変化するものなのだから、既成概念の色眼鏡で見ることをせず、真摯に向き合い、自分なりに理解することが人を尊重するということなのでしょう。物語の中でマルセロは、自分にはアスペルガー症候群の特徴に一致するところもあれば、そうではないところもあると言っています。診断名(症状の特性)がイコールその人の個性ではないということもあらためて考えさせられます(『わたしは倒れて血を流す』がこのテーマなのでご参照ください)。これはマルセロという、少し他の人とは違う感じ方や考え方をする少年が体験した、ひと夏の物語です。高校生が初めて実社会でアルバイト体験をすることは、それなりに胸の高鳴りを覚えるものですが、マルセロは父親に交換条件を出されて、仕方がなくこのアルバイトに行くことになったという経緯があります。とはいえ、この経験は否応なくマルセロに新たな感覚を目覚めさせていくことになるのです。新しい世界に出会ってしまったことの苦さもあります。個性的な少年が深遠な心の真実に向き合うことになる、秀逸な物語として定評のある一冊です。刊行から時間が経過しても、そこは変わらないというか、評価はより高まっているのではないかと思います。

私立の特別支援学校に通っている十七歳の発達障がいのある少年、マルセロ。彼は環境の整った学校でストレスのない守られた生活を送っており、その生活に満足していました。ところが、弁護士である父親は、特別なこだわりはあるものの知能に支障がないマルセロを普通高校に行かせたいと考えていました。自分の経営する大きな法律事務所で、夏休みにマルセロにアルバイトをさせようにしたのは、マルセロに「リアル」な社会を経験させたかったからです。支援学校に残りたいというマルセロに父親が突き付けた交換条件は、このアルバイトを体験してからなら進路を自分で考えて良いということでした。「リアル」な社会とは、傲慢で自分本位な人間たちが、互いに傷つけあい、しのぎを削る世界です。かならずしも、優しく思いやりのある人たちがいる場所ではありません。実際、マルセロはピュアで、独自のこだわりの世界に生きており、虚飾や欲に囚われていないため、えげつない「リアル」な社会の人たちと協調することが難しいのです。父親の法律事務所で郵便物の仕分けやファイリングをすることになったマルセロは、彼なりに周囲の人たちと話を合わせ、応対しようと試みますが、どこかズレていることは否め図、揶揄されることもあります。それでも同僚のジャスミンと親しくなったり、彼女を「ものにしたい」と狙っている同じく共同経営者の息子でハーバードに通うウェンデルにそそのかされたりと、否応なく人間関係に巻き込まれていきます。そんな折、法律事務所のクライアントが起こした事故に関係する衝撃的な写真を見てしまったマルセロは、訴訟案件を優位に進めるために事務所が行っている隠蔽や不正を知り、行動を起こしていくことになります。マルセロの中に兆していく思いは善意や正義の意志なのか。それもまた、彼の「特別なこだわり」なのか。人の根源的なところにある心理を解体したところに見出されるものが本質を問いかけていきます。

清濁を併せ呑むことができないマルセロは、父親が破滅すれば、自分自身の守られた環境をも失うことにもなるにも関わらず、父親を糾していきます。マルセロは、法律事務所ぐるみの隠蔽だけではなく、父親個人の別件での問題行動をも知ってしまいます。「普通の人」のようには感情が沸き起こらないはずのマルセロが感じた怒り。それだけのショックをマルセロに与えていく物語の展開にも驚かされますが、自分の中の変化を受け止めて、マルセロという「個性」がどう打ち返していくか。彼の心に閃くものや、彼なりに見出していく答えに心を揺さぶられるものがあります。マルセロは宗教に対して「特別なこだわり」を持っています。聖書や詩篇を暗唱しており、引用も自在です。一方で、彼は敬虔な「信者」ではないのです。支援学校の友人が、野球のデータに「特別なこだわり」を持っていることに意味がないと感じていたマルセロは、自分の宗教への関心もそれと変わりがないことに気づきます。とはいえ、そこで「信仰の救い」を改めて問いかけられるあたりが、この物語が掘り下げてくる深さなのです。倫理感や道義心、恋愛感情を科学的に解体した先にあるもの。非科学的であっても神の恩寵を信じること。人があたりまえに感じてていて、冷静に目を向けることのない心の動きを、自分の中にあるものも含めて客観的に分析するマルセロ。物語が見せてくれるのは、その先にある真理です。「リアル」に辟易している人間にとって、マルセロがこの世界に対峙するスタンスは、憧れでもあるような気もします。まあ、翻弄されながら葛藤して生きることも悪くはないのですが(いや、少しくたびれました)。