メールの中のあいつ

出 版 社: 文研出版 

著     者: 赤羽 じゅんこ

発 行 年: 2000年12月


メールの中のあいつ  紹介と感想 >
人がネットに書き込んでいることは、まず疑ってかかるべきです。子どもたちにそう教えることが現代の良識ですね。十五歳の中学生女子と名乗っている中年のオジサンなんてネット上にはいくらでもいます。人を見たら泥棒と思え、という警句のように、ネット上で発言する人はほぼ嘘つきだ、と疑ってみるべきでしょう。ネットコミュニケーションが一般的なものになって四半世紀が経過しています。パソコン通信時代のフォーラムから、掲示板を経て、ブログ、SNSとコミュニケーションツールは変遷し、個人間のやりとりもメールからLINE全盛の昨今。ネットでの人情も変わってきました。誰も家にカギをかけないことが当たり前だった田舎の村が、いまや全戸セコム完備ぐらいの警戒感になっているのが現時点(2017年)です。これを世知辛い、と思うかどうか。身元を明かさずに発信できることから、いくらでも嘘をつけるし、話を「盛り放題」なのですから、まず疑う姿勢は必要でしょうね。さて本書は刊行当時の西暦2000年頃のネット事情がベースとなっています。まだネットリテラシーについて学校教育が関与することもなかった時代。その頃の中学生の初々しいお話で、今となると牧歌的でさえあるのですが、なんだろう、ちょっと素敵な話だと思います。自分を偽れる世界だからこそ、自分を偽らないことの潔さがある。十分、現代の中学生にも共感が得られる話だと思います。

インターネットサイトで知りあった中学生三人。アキラとカビゴンとゴクウ。無論、それはハンドルネームで、本名ではありません。三人は意気投合して、楽しくメールでのやりとりを続けていました。ところが、地方に暮らしているカビゴンが、東京に来るので三人で会おうという話になったことから雲行きが怪しくなります。本当の顔も名前も明かさない付き合いだったから良かったのに、と内心、困っているのがアキラこと祥太です。メールの中ではバスケ部で活躍するクラスの人気者であるアキラですが、現実の祥太は、学校で「仙人」なんてあだ名でよばれている不登校がちの暗い少年なのです。会うか、会うまいか。祥太は思い悩みます。一方、学校では学級新聞を作ろうという先生の発案で、祥太も委員の一人に選ばれます。パソコンが得意な祥太は、色々なネタをコピペして、器用に新聞を仕上げますが、どうも求められているものとは違うようです。一緒に新聞作りをしている同級生たちも、どこか違和感を感じている様子。キレイに仕上げても、自分たちの本音を載せなければ意味がないのではないか。紆余曲折の末、本気の新聞づくりに取り組むことなり、祥太の心にも変化がきざしていきます。自分を偽っていたことで、ネットの友人たちと顔を合わせることができなかった祥太。飾らない自分のまま、本当の気持ちを口にするなんてできるのでしょうか。ささやかな、それでいて大きな勇気を少年が奮う物語です。

メール友だちも学校の同級生たちも、みんな素直な気持ちを胸に秘めています。同級生たちも表面上、素直ではない態度をとりがちですが、意地悪なわけではありません。本当の気持ちをさらけ出すことには、誰しも勇気がいるのです。だからこそ、胸の内を開いて、誰かと心が通じた時の喜びは大きい。これは思春期のあの時間を過ごしたことがある人にはわかるはずです。一方、物語の中では、祥太のお母さんの世俗的な価値観が仮想敵となっています。損得や世間体ばかり気にして、真摯であることに価値を置かない。リアルな世界の大人とはそういうものかも知れません。だからこそ、本作の中学生たちの純粋さが尊く感じるんですね。ところで、ネットでは、平気で人を傷つける人もいれば、無償の優しさを発揮する人もいます。時に、大いなる理想を語ることもできます。顔を出さないことで、逆に、人が純粋でいられる場所かも知れません。ネットの功罪では、罪の方が語られがちですが、功もまたあります。顔も知らない誰かが紹介するネットのブックレビューから運命の一冊を見つけられる可能性もある。とはいえ、ここは決して信用せずに、ご自分の目で読んで、判断していただきたいと思います。蛇足ですが、僕は嘘をついていません(本当かな)。