レイさんといた夏

出 版 社: 講談社

著     者: 安田夏菜

発 行 年: 2016年07月

レイさんといた夏  紹介と感想>

人に対して抱いていた印象が変わる、ということがよくあります。第一印象で、なんか感じの悪い人だなと思ってしまっても、しばらく付き合っていくうちに、違う側面が見えてきて、けっこう良い人だなあなんて思い直すこともあるものです。実はそちらの方が、その人の本当の人となりだったりします。その人が変わったのではなく、自分の見方が変わってきただけで、要は、こちらの思い込みや勘違いが解けただけなのでしょうね。相手にしてみれば、見損なわれていたわけで、失礼な話かと思います。印刷された本のように、全く変化しないものでも、読んだ時の気分次第で違った印象を受けるものです。何かに抱く印象というのは、結局、自分自身が投影された鏡のようなものなのでしょう。こうして感想文を書くという行為は、今の自分の心の姿を繋ぎとめるものなのですが、メンタルダウンしている時には「疑心暗鬼」が前面に出てきてしまいます(実際、自分は気分障害に陥りやすくて、認知療法で矯正していた時期もあります。まあ、そんな時は何も書かない方が賢明です)。周囲の人や世の中がどんなふうに見えているか。その「見え方」自体が、自分という主体そのものである。そんな気づきが、この物語には出てきます。「我思う、ゆえに我あり」と哲学的に己の実存を掘り下げるまでもなく、印象や気分が変わること自体が自分自身のせいであり、すべてが自分の中で起きているドラマだと思うと、人間万事、考え方次第ですね。まあ、その考えを変えられないから、苦労するのだけれど。

中学一年生の女の子、莉緒(りお)の夏休みは引っ越しとともに始まります。せっかく入った中学校で一学期を過ごしただけで父親の仕事の都合で転校しなければならなくなったことを残念に思うどころか、莉緒はやや安堵を覚えていました。いじめられていたというわけではありませんが、親しかったはずの友だちに裏切られ、人間不信に陥っていたのです。陰で呼ばれていた「麻婆豆腐」という変なあだ名も、元をただせば、莉緒が蒔いた種ということもあり、自己嫌悪も募って、失意のうちに引きこもり、片付ける気力もなく汚部屋化していく自分の部屋で、無為に夏休みを過ごしていた莉緒。そんな汚部屋環境にわいて出たのが、幽霊です。莉緒よりもすこし年上のその少女の幽霊は、髪の毛を真っ茶色に染めて、銀のピアスをつけ、黒のジャージの上下を着た、いわゆるヤンキー風のテイスト。関西弁で莉緒に親しげに話しかけてくる、そんなフレンドリーな幽霊に莉緒は仰天します。一体、彼女は何者なのか、と言えば、実は彼女自身もよくわからないというのです。自分の名前も思い出せず、幽霊なので鏡にも映らないから、自分の顔を見ることもできない。成仏できないのは心残りがあるからだろうけれど、そもそも自分が何者かもわからないのでは処置なしです。名無しの幽霊である「レイさん」に、唯一、その姿が見える生きた人間である莉緒は、拝み倒されて、この夏を幽霊の自分さがしに付き合うことになります。それは、学校生活でしくじり、自分が何者かわからなくなってしまっていた莉緒の心と呼応するものだったのかも知れません。レイさんが自分自身の姿を見つけだしていったように、生きている莉緒もまた人生の転機を得て、新しい世界に導かれる夏となるのです。

レイさんは軽妙な関西弁を話す明るくフレンドリーなキャラクターなのですが、実はその内面に鬱屈したものがあることが次第に見えてきます。それは彼女が思い出しながら語る、生前に関わった人たちとのエピソードから映し出されていきます。莉緒と同じように、人から裏切られたこと。人の好意を不器用に受け流して、傷つけてしまったこと。自分の行為や言葉を人がどう受け止めていたのか、相手の表情を思い出し、レイさんは莉緒に、その人たちの絵を描いてもらいます。人との関わりあいの中で、自分の目に写っていた相手の姿に自分自身が投影されている、という考え方が、レイさんの姿を形どっていく見事な展開です。一方で、莉緒はレイさんに気づかれないまま、その正体をクリティカルに掴んでいきます。この謎解きが非常に面白く、アイデアと仕掛けに満ちていて驚きも隠せません。特にレイさんが幽霊という、時間を超越した存在であることが、物語に大きな飛躍を与えます。やがてレイさんが自分の正体を知ったら、消えてしまうのではないかと莉緒が恐れるほど、気持を寄せる存在になっていくあたりも読みどころです。長くはない物語に、エンタメ感のある仕掛けと、児童文学的な成長痛とが混ざりあい、大きな気づきを与えてくれる非常に良くできた作品です。なによりも莉緒の一人称という「彼女の視線が捉えたレイさんの物語」であることが、多重に効いてくるのです。誰かを愛おしく思う気持ちこそが自分自身である。そう考えると、人は孤独な思索者ではいられないものかと思うのですが、それは達観に至っていないだけなのか。そんな青さもまた良いなと思うのです。