宇宙のみなしご

出 版 社: 講談社

著     者: 森絵都

発 行 年: 1994年11月

宇宙のみなしご  紹介と感想>

刊行当時に読んで以来なので、四半世紀ぶりの再読となります。とはいえ、その後も自分が児童文学やY A作品を読み、考えていく中で常に意識していた作品です。初期の「森絵都作品」を考える上でも、またここからつながっていく、その後のY A作品のムーブを理解する上でも、「宇宙のみなしご」という概念や、ここに描かれる「子どもの自意識」は、大きなエポックを作ったと思うのです。この作品は95年に青少年感想文コンクールの中学生の部の課題図書に選ばれています。91年の中学生の部の課題図書の『高志と孝一』と比較すると、児童文学に描かれる中学生像の変遷や表現の進化には目をみはるものがあります(まあ、先行する岩瀬成子さん、高田桂子さん、佐藤多佳子さんと比較するとまた別の感慨もあるのですが)。「新しい作品」という印象をずっと持ち続けていたのですが、今読み返すと、電話が固定電話だったり、インターネット普及以前の「パソコン通信」だったり(ネットコミュニケーション自体がまだかなりレアなものでした)、「不登校」が「登校拒否」と呼ばれていたりと、時代を感じさせるところはあります。一方でカジュアルに描かれる「理由なき閉塞感」や、大人不在の「子どもなりの結論」で世界を見切るノリなど、旧来の児童文学にないスタイルの若さと青さは、今も鮮烈です。作者が自分とほぼ同い年ということもあり、リアルタイムの読者であった自分の受けた当時のインパクトもまた思い出されます。かつての若い作家が挑戦し、生み出した新しい児童文学の萌芽に、そしてその軽さと薄さに、改めて衝撃を受けた再読でした。

とくにはっきりとした理由もない「登校拒否」で二週間、中学校に行かなかった陽子。ただ面倒くさかっただけだし、どうせ誰も深刻に受け止めていないだろうと陽子は思っています。退屈な学校が漫然と嫌だっただけなので、復帰もまた簡単です。そんな軽いスタンスの陽子。クラスのどのグループにも入らない気ままな陽子の存在を、それでも気にしている同級生もいます。クラスで便利勝手に使われている少年キヨスクは、パソコン通信のネットワークで終末論にかぶれ、何故か陽子を世紀末に選ばれし者の同志として扱います。年子の弟のリンが親しくしている七瀬さんもまた、クラスのグループ内のごたごたに辟易し、陽子に憧れを抱いています。そんな陽子も、少しは息詰まることもあるのですが、ある方法で、自分の世界を広げ、ストレスを発散していました。それは弟のリンと二人で余所の家の屋根に勝手に登ること。この秘密を、七瀬さんとキヨスクに知られてしまい、懇願され一緒に屋根に登ることになるのですが、ここで思わぬトラブルが発生します。悩めるキヨスクや七瀬さんの思いに触れ、マイペースな陽子もまた、自分たちがこの世界と渡りあっていく方法について思いを馳せていくことになるのです。

主人公の十四歳の陽子の自己肯定感が際立っています。陽子自身は葛藤しない子であり、家族や友人との関係性に悩んだり、劣等感に苛まれることもありません。社会的に不合理な目にあってもいないし、両親の仕事が忙しくあまり構ってくれないとはいえ、恵まれた環境にいる子どもなのです。それでも漠然とざわざわとする気持ちを持て余しているし、彼女なりの「しんどさ」があります。この爆然とした「気分」こそが仮想敵です。退屈、ないしは、生きていくことの倦怠との闘い。そして、デフォルトにある孤独。ぼくたちは「宇宙のみなしご」なのだとキヨスクは言います。ひとりで生まれてひとりで死んでいく孤独な存在は、宇宙の闇にのみこまれないためにどうしたら良いのか。そんな形而上の命題が、至ってカジュアルに解体されていきます。さて、ここで陽子が考える「子どもなりの結論」の一次回答で、物語が終わってしまうことに驚かされます。大人の見識や達観によるアドバイスもなければ、大人と対立することも深刻に悩むこともない。陽子を真剣に叱る大人も誉める大人もいないのです。空虚な世界観の中で中学生がイキっているだけのようにも思えます。一方で、子どもなりに、この無味な世界と対峙して生き抜こうという鮮烈な意思表明も印象的です。今にして思うとバブル最末期の豊かさと、文化的な浅薄さなど、時代背景があってこそかなとも。この背景を抜きには、作品の位相が見えない気もするのです。そんな世界において、子どもなりの真摯さで、孤独の重さや無常感を軽やかに表現すること。今となっては説明不能なところにある「しんどさ」こそ、リアルタイムに生きていた子どもたちの共感を呼んだのかも知れません。児童文学からヤングアダルト文学への移行とスタイルの完成を目撃する一冊です。森絵都さんの『つきのふね』はさらにここから先に進みます。