ぼくらのサイテーの夏

出 版 社: 講談社

著     者: 笹生陽子

発 行 年: 1996年06月


ぼくらのサイテーの夏  紹介と感想 >
夏休みを前にした一学期の終業式の後、小学六年生の桃井は大きな失敗をします。男子の間で流行っている遊び「階段落ち」で、階段九段を飛び降りた四組の生徒に対抗して、決死のダイビングを敢行したはいいものの、負けずぎらいの桃井が得たものは手首の捻挫と欠けた前歯だったのです。しかも、桃井が怪我をしたために危険なゲームのことが先生にバレてしまい、罰として命じられたのが夏休み中の四週間のプール掃除。桃井と一緒にプール掃除をすることになったのは、例の九段を跳んだ栗田という少年でした。たまたま「階段落ち」に参加していた、この四組の少年のことを二組の桃井は良く知りません。背が高く、ちょっと変わったところのある栗田に、当初、桃井は反感を覚えますが、まあ、それはボーイミーツボーイの常套というもの。やがて訪れる友情の蜜月と、大きな成長の契機。学校生活最後の夏休みをプール掃除で過ごすことになった桃井の、そんなサイテーの夏の物語です。

同級生の大人びた態度に対して敏感になる年頃というものがあります。例えば、いつも仲間とつるんでいることが小学生男子の作法だとすると、一人孤高を保って、群れたがらないクールな奴、なんていうのはちょっと気になるものです。途端に自分がガキっぽく思えてくる。一緒にプール掃除をすることになった栗田はそんな奴でした。同じクラスの仲間の情報によると、栗田の家は「カテイホウカイ。ハハ、イエデ」だというのですが、これには桃井の方がドキッとします。家庭崩壊と言えば、自分の家にも心当たりがある。桃井の二歳上の兄は成績優秀なエリートで、名門の私立中学に進んだものの、ドロップアウトしてしまい、今や不登校を続けています。部屋に引きこもり、家族と食事をすることもなく、不愉快なことがあれば暴れだすようになっていました。父親が単身赴任で家にいない桃井の家もまた、危機的状況を抱えていたのです。それにしても、あのデキる兄がどうしてこうなってしまったのか。呆れるでもなく、兄を見つめ続ける桃井のスタンスが良いのですね。迷える母親に代わって、程よい距離感で兄に接する弟。一緒に夜の散歩に誘い出す桃井に、ちゃんとついてくる兄。ある夕方、自閉症(だと思います)の五歳の妹を連れて歩いていた栗田と偶然、出くわしたことが縁で、桃井は栗田の、裕福だけれど複雑な家庭事情を知ってしまいます。それ以来、散歩のコースの途中で、兄と一緒に、栗田兄妹と会うようになり、やがて桃井の兄と栗田の妹には、不思議な友好関係が生まれていきます。ひとつのつながりが再生への契機となる。やがて夏は過ぎ、新しい季節が到来します。少年たちは、少しだけ大人びて、それぞれに歩き始めるのです。

この作品、女子生徒の存在感が極めて稀薄です。いわゆる「口うるさい女子」すら出てきません。たしかに小学生高学年における男女の距離感というのは、いかんともしがたくて、それぞれの世界を形成しています。リアルを考えれば、この物語世界に同級生女子が出てこないのは不思議ではないのですが、どうもここは「邪魔者」が排除された「秘密の花園」めく男子ワールドのような気もするのです。実体験としての男子の世界は、それなりの苦闘もあるし、しょうもないことが多いのですが、女性作家の手にかかると、まるで仔犬同士がじゃれあうように男子は描かれ、手におえない、みっともない虚栄心や嫉妬心も甘美なものに変えられてしまいます。ゼロ年代に続く児童文学の分岐点として、児童文学にボーイズラブ的な要素が組み込まれはじめた萌芽を見てとれます(一方で、女子生徒のメンタルは、幻想もなくリアルに表現されていくのが若手女性作家中心時代の特徴点の一つです)。後日談として、中学生になった桃井が、群れあう男子仲間としではなく、一人ひとり、それぞれの友人たちと向き合い、心で感じたことを話しはじめる、そんな成長が描かれます。スティーブン・キングの『スタンド・バイミー』は、もう足並みを揃えられない男子仲間の終焉を、諦観と哀感ともに描いていましたが、この終わりを、新しい始まりとした、そんな児童文学的な希望もまた良いなと思いました。ところで、変わった友人との関係性、ひきこもりの兄の存在など、この設定を裏返したところに、ライトノベル世界に登場してエポックを作った作品『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(桜庭一樹さん)が想起させられます。児童文学とラノベの作法やテーマの違いを考える上でも興味深い読み比べになると思います。