朝はだんだん見えてくる

出 版 社: 理論社 

著     者: 岩瀬成子

発 行 年: 1977年01月


朝はだんだん見えてくる  紹介と感想 >
朝はなかなか見えてこない。スタートできないまま、ひたすら助走を続けている、そんな状態。中学三年生というのはおおよそ誰でも自分の進路に悩むものです。でも、奈々が抱えている悩みは、もう少し複雑なものでした。それは、決まり切った社会制度の閉塞感からの無言の圧力、なんて言ったら、カッコ良すぎますね。でも、実際、奈々はそうした、はっきりしないもののために身動きがとれなくなっていたのです。高校に進学するのはあたり前だし、できれば大学にも行って、いい就職先を見つけたいと思うのが、ごく普通ということ。でも、そんなレールにすんなりと乗ることはできない。どうして、できないのか。自分が自分であることを模索していて、社会とのうまい距離感がつかめないのは、社会音痴でニブいためだからか、それともセンシティブすぎるのか。米軍基地の近くにある町に住む中学三年生の女子、奈々は迷っています。ごく普通の同級生の友だちたちとは足並みが揃わなくなってしまっている。ジャズ喫茶に入りびたり、男の子のバイクの後ろに乗ってとばしてみたり、タバコや飲酒もやってみる。でも、そんなことじゃ、何も変わらない。もんもんと迷走し続ける奈々の日々がここに描かれていきます

なんでもできる自由がありながら、なにもできないでいる。無気力なのではなく、突破口が見つからない状態。やりたいことを誰にもじゃまされずにやりたいだけ。でも、何をやりたいのかわからない。経済的に困ってはいない。両親は健在で、いたって良識的な人たちです。子どもには、より良い生き方をして欲しいと思っているけれど、けっして強制はしない。奈々が「商業高校に行きたい」なんて、戯れ半分に言い出せば、それをまともに考えてくれる。高度成長期の「教育ママ」的なおしつけをするわけでもない。奈々は恵まれていて、自由なのです。それでも、決まり切ったレールに乗ることの圧迫感に息が詰まってしまっている。それは、ただ単にわがままというべきなのかも知れません。しかし、恵まれた時代には、その時代なりの心の危機があるのです。飼い犬のフロイトを連れて、フラフラと町をさまよう奈々は、ちょっとあぶない場所にも出入りしてみたりしながら、はっきりしない気持ちをはっきりさせようとしています。やがて、高校を中退して絵を描こうとしているレイという女の子と出会うことで、奈々は大きな刺激を受けます。レイと一緒に個展を開こうという話で盛り上がり、奈々の心の導火線にようやく火がつきます。その計画はさまざまなトラブルのためにすんなりとはいかないものの、それでも、スタートのための最初の一歩が見えてきます。心のフォーカスが絞られて、ピントが合い始める。モラトリアムの時間の彷徨ではあるのだけれど、「なにもしようと思わなければなにもしないでいられる時代」の心の飢餓感が、ここに物語として結ばれています。

「わたしをさがして」というのは、後に岩瀬成子さんが書かれた前衛的な作品のタイトルです。本作での小説デビュー以降、岩瀬成子さんは問題作を連発していきます。メンタルバランスがやや崩れたような人も登場する後続の作品に比べると、本作はまだわりとベーシックな思春期小説の範囲に収まっていて、この理由なくモヤモヤする心が躍動的に描かれることで、児童文学として危うくもバランスがとれているような気がします。「わたしをさがす」ことは、岩瀬成子さんの作品に通底するモチーフです。ある種の子どもたちが体験するであろう思春期のモヤモヤとした気分。理由なきよるべのなさのエッセンスが、ここにはあります。本作には70年代の終わりの空気、ベトナム戦争末期の時代の雰囲気も描かれています。反戦喫茶であったり、基地反対のデモであったり、そうしたものが、やがて世の中の周辺に追いやられ、忌避されていく末期の姿もここに見てとれます。きたるべき80年代は、生きることの意味がさらに見えない時代です。怒りの対象もなく、仮想敵もいない。そして子どもたちは、目的意識を持っていなければ、世の中に漠然とスポイルされていく。何がしたいわけでもないのに、それでも、なにかしなければならないと焦っている。自分が生きることの意味が見つけられない。でも、それはより良く生きていきたい、という人間の本質的な欲求ではないのでしょうか。そんな子どもたちの形而上の悩みを描く観念小説もまた児童文学のスタイルになっていった、という進化の過程がここに見てとれます。