歩きだす夏

出 版 社: 学研プラス

著     者: 今井恭子

発 行 年: 2004年06月

歩きだす夏 紹介と感想>

歩きだす夏、というタイトル通り、踏みとどまっていた場所から一歩前へ進んでいく物語です。その覚悟を決めるまでの逡巡が、実に読ませる物語となっています。小学六年生の加奈子の頭を悩ませているのは、両親のことです。パパとママは離婚しています。ママと一緒に暮らしている加奈子は、長いお休みに、パパが一人で暮らしている北海道に行くことになるのですが、これがなかなか重い「任務」なのです。加奈子は、どうやらパパが女の人と付き合っているらしいと感じとっています。これが娘としては、どうにも複雑なところで、今度の夏休みのパパの家への滞在に戦々恐々としているのです。何を恐れているのかといえば、言わずもがなですが、パパが再婚する可能性が見えてきてしまうと、やはり穏やかではいられないのです。何が良くて、何がいけないともいえない難しさがあります。両親、それぞれの気持ちを計りかねて、悩める加奈子の夏。友だちは学習塾の夏期講習に通っているというのに、こんなことで良いのかと焦ってみたり。いたって明るい加奈子は素直な性格で、自分の短慮を反省したり、なんとかしなきゃと思ったり、その等身大の気持ちの躍動を心地良く見守っていられるユーモラスな物語です。岡本順さんの挿絵の加奈子の表情の効果も大きく、その気持ちに寄り添いながら、あまり深刻にならず、楽しく読んでいけます。加奈子が自分なりの一歩を踏み出していく夏。第12回小川未明文学賞大賞受賞作。2005年には青少年読書感想文コンクールの課題図書にも選ばれた秀逸な作品です。

そもそも両親がなんで離婚することになったのか、加奈子にもちゃんと理解できてはいません。両親の仲が悪くなったわけではありません。ただ、考え方の違いは静かに間隔を空け始めていたし、それぞれが見ている方向も違ってきてはいました。パパが転職して北海道で働くと決めた時、ママはパパについていかないと決めました。ママはママで自分の道を進みたかったからです。ママが陶芸に次第にのめり込んでいく気持ちを、パパには理解ができません。ママは一人になることで、誰にも頼らず、自分の進むべき道を見極めようとしていました。結果として、ママは高名な賞を受賞して、その才能を証明することになります。パパと同じように、ママのやっていることをいぶかしんでいた加奈子としては、その成果に、気持ちの上で、やや追い込まれることになります。ママにとって、パパにとって、別れてそれぞれの道を行くことの方が幸せなのか。頭を悩ませる加奈子は、夢の中に出てきた「飼い犬相談所」で、何故か犬に悩みを打ち明けるのですが、「父親や母親のことで、頭を悩ませる犬が、いると思うのか。」と一蹴されます。そして「おまえは、いったいどんな犬になりたいのか?」と、逆に犬に問われて身悶えします。ここが非常に面白いところです。自分でも、どうすべき、薄々、気づいてはいるのですよね。さて夏休みに北海道に行けば、案の定、パパの恋人に会うことになってしまい、加奈子はうろたえます。その人の前でやたらとママの自慢話をしながら、そんな自分にも辟易してしまいます。それでも少しずつ、大人たちの気持ちを感じとっていく加奈子は、ひとつの結論として、自分もまたあるがまま、思ったように生きようと決意するのです。ここに両親の離婚が正解であったかどうかは棚上げにする、という飛躍があります。実際、正解がないことを悩んでも仕方がないのですが、その悩みこそが魅力的な物語でした。悩む時間もまた人の糧となるものです。

自分が好きなことをしよう。家族がどうあるべきか、なんて理想に縛られてはいけない。そうは言っても、なかなか思い切れないものです。母親が芸術に目覚めて、家庭よりもそちらを優先しはじめる時に、家族が諸手をあげて応援する、とはならないのが物語の常套です。児童文学の中でも『空中アトリエ』(1970年) など半世紀も前から描かれてきた相克ですし、母親の自分探しを子どもがどう受け止めるかも、時折、登場するテーマです。親が勝手なんだから、自分も勝手にやらせてもらう。それが家族が前向きに折り合うということ、であるのか。家族のあり方のスタンダードにも変遷があって、その時代なりの良識がバイアスとなって、物語を深めていきます。児童文学が描く両親の離婚についてはモードチェンジが著しく、それでも、色々な形で傷ついた子どもたちに寄り添う姿勢は変わらないとは思います。離婚の危機が回避される児童文学作品はありましたが、離婚してしまった両親が復縁するという展開はあまり記憶がありません(いや、『ふたりのロッテ』は復縁しましたね)。覆水は盆に返らないし、受け止めるしかないとしたら、その痛みをどうやり過ごしていくべきか。両親の離婚というテーマには名作が多く、その描かれ方の変遷も興味深いところです。例えば『かれ草色の風をありがとう』(1981年)と『わたしたちの家は、ちょっとへんです』(2016年) あたりを読み比べていただけると良いかと。そして非常に大きなエポックであった『優しさごっこ』や『お引越し』の後に両親の離婚を描く児童文学には何が残されているのか、を考えることになるかとも思います。ともかくも、本書『歩きだす夏』は、子どもが悩んでうろたえる、原点回帰のアプローチが実に繊細でユーモラスに描かれた快作だと思います。