ブタがビラをくばるとき

出 版 社: 小学館

著     者: 神宮輝夫

発 行 年: 1980年04月


ブタがビラをくばるとき  紹介と感想 >
ブタがビラをくばるとき、何かが起こる。朝、小学四年生の久志は通学路で一枚のビラを渡されます。一面、薄緑の紙の真ん中に白い文字で書かれているのは「自然にかえろう」という言葉。久志にビラを渡した人物は、ブタの顔をしていたような気がするけれど、後から気がついて振り返ってみても、そこにはもう誰もいません。その日、久志には不思議なことが起きます。いつも殺気だっている通学途中の車がやけに穏やかになって、クラクションもならさずに通り過ぎていったり、ドライバーが子どもたちに手を振ったりするのです。学校の先生の態度も違っていました。いつもは宿題調べから授業が始まって、忘れたら棒グラフでペナルティを記録されているのに、そんなことを口にせずに先生は授業を始めるのです。生徒から催促されても、宿題を忘れてもどうってことないなんて先生は言いだします。テストの時間には、いつもならカンニングの注意をするところが、みんなで答えを教えあって、みんなで百点になろう、なんて言うのです。生徒たちは落ち着かなくなります。どうやらこれは、久志のクラスだけの現象ではなく、全校の先生たちが、なんだか「変」になっているようです。いつもは先生たちが勝手に決めてしまうようなことも、生徒の自主性にまかせようとします。やがて生徒たちにわかってきたのは、これが学校だけのことではなく、この町の大人がすべて「変」になっているという事態だったのです。

大人がなぜか「リベラル」になってしまった世界。この異常事態に対処するために児童会を開こうと生徒たちが許可をとりに行くと、校長先生はのんびりとお昼寝の最中。他の先生たちからは、校長を起こすなと言われます。先生たちのことはほうっておいて始まった児童会では議論が交わされ、ひとつの仮説が提示されます。ブタの顔をして背広を着た人物が、通学路でビラを配り、その範囲内の大人がみんなおかしくなっているのではないか。仮説に従い対策を立てようとすると、そこに目を覚ました校長先生がやってきて、児童会を運営している生徒たちの自主性に喜びます。生徒たちは先生たちがおかしくなったと校長に訴えますが、校長は宿題を出さない方が良いし、みんなで勉強ができるようになるように教えあおうと言うばかりなのです。これには、これまで先生の言いつけどおりに勉強にとりくんできた真面目な生徒がパニックを起こします。結局、校長とは話にならないことがわかった生徒たちは、五年生、六年生の委員を中心にして地域の班で集団行動をとることにします。小学生の家では、お母さんたちが家からいなくなっていました。こんなにお天気の良い日に家にいるのはもったいないからという理由で出かけてしまっているのです。このままでは食事も用意してもらえないかも知れない。生徒たちは家に帰ってからも、班で集まり、上級生たちが下級生たちの面倒を見ることにしてこの緊急事態を乗り切ろうとします。久志は、ぞっとして恐ろしいけれど、なんだかわくわくするような素敵な気持をこの日、感じていました。この不思議な現象はいったいどんな結末を迎えることになるのでしょうか。

この作品はファンタジーとリアリズムのどちらなのか、と問われれば、前者だと答えるべきなのかも知れません。この不思議なできごとをちゃんと説明できるような理屈はありません。ブタのマスクを被った工作員によって、ある町の大人たちが集団催眠にかけられてしまった、なんて陰謀かも知れませんが、一体、なんのためにという感じです(Xファイルみたいですね)。論点は「変」と「正常」の起点がどこにあるのかということです。理屈屋で知られる生徒が児童会で発言します。大人は変になったんじゃない、正常になったのだ。宿題はさせない、みんながわかるようにする、というのは正しい教育のありかたではないのか。でも、それを子どもたちは気味が悪いと思うのです。正常が異常で、異常が正常である、そんな社会を子どもたち自身が受け入れて順応しています。受験教育反対、つめこみ反対、と言う大人もいますが、子どもだって、自分たちの将来を考えると努力をした方が良いと思っているのです。異常な世界に入り込んでしまったと思ったら、実はもとの方が異常な世界でした、という価値観が逆転する構成はSFなどで見かける手法です。本当に恐ろしい世界はリアルの現実の方だという答えが導き出される逆説的な意味では、これもまたリアリズム児童文学の範疇で語られても良い作品かなと思っています。