チューリップタッチ

The Tulip touch.

出 版 社: 評論社

著     者: アン・ファイン

翻 訳 者: 灰島かり

発 行 年: 2004年11月


チューリップタッチ  紹介と感想 >
意地悪で、みんなから嫌われ、仲間はずれのチューリップという名の女の子。ナタリーは、転校してはじめて仲良くなった子が、このチューリップだったために、ちょっと複雑な学校生活を余儀なくされます。チューリップの考え出す様々なイタズラにつき合わされるナタリーは、思うようにものも言えないまま、ずるずるとひきずられ、それでもチューリップなしではつまらない毎日を過ごすことになります。「支配と隷属の友人関係の一典型」。ナタリーの家は、ホテルの支配人をしている裕福で幸福な家庭です。一方でチューリップは、少し気のふれたような母親と、粗野で暴力的な父親の家庭に暮らしています。チューリップの外見がボロボロでうす汚れたものであることも、その心の闇も、どうやら家庭環境に影響があるようです。大人の前で、へつらいお世辞を言えるチューリップは、ナタリーの家に遊びにきてもそつなくこなし、ナタリーの父や母にもとりいります。一方、ナタリーにも心の闇はあり、弟ばかり可愛がる母親のことや、また、チューリップにつき従うだけの友人関係に対して嫌気がさしていきます。中学生になり、どんどんとエスカレートするチューリップの破天荒なイタズラと暴力的な態度に耐えがたくなったナタリーは、ついに、チューリップと「訣別」する覚悟をします。新しい仲間とつきあいはじめたナタリー。しかし、そのことで、チューリップの心と生活は、ますます荒れていき、やがて信じられないような凶行を犯すことになるのです・・・。子どもの世界の微妙な人間関係と、大人の欺瞞、きれいごとの友情では救いきれないもの。それでもどこかに、解決策があったかもしれない過去への「後悔」が胸を打つ作品です。

『穴』で好評を博したルイス・サッカーの『トイレまちがえちゃった』には、暴れん坊で、チューリップのように皆から仲間はずれにされている男の子が登場します。素直に自分の心を開くことができず、皆にわざと嫌われることでしかコミュニケーションがとれない男の子。彼の唯一の気晴らしは、自分の部屋でぬいぐるみを使って人形劇を行うこと。その物語の中では、本来の優しい心を発揮してドラマを演じることができるのです(ということで、ギャリコの『七つの人形の恋物語』を想起させられる部分が多い作品でもあります)。彼は、新任の学内カウンセラーの温かい思いやりで、人としての痛みを覚えながら、次第に、周囲にとけこむことができるように変わっていきます。『チューリップ・タッチ』を読みながら、この作品を思いだしていたのですが、チューリップの場合、隠された「素直さ」や、「優しさ」を希求する場面が描かれないのです。これには、リアリティを覚えると同時に、チューリップはただのワルなのか?という疑問もわいてきてしまいます。「本当に心の底から悪い子なんていない」「生まれつき邪悪な人間なんていない」という言葉も、ただのおためごかしではないのか。ただし、ナタリーはこう述懐します。『人間は鍵のかかったドアではない。もし望むなら、心の奥に行き着くことができたはずだ。でも、だれもそうしようとはしなかった。だれも、チューリップに手を差しのべようとはしなかった。だれも、彼女にふれようとはしなかった』。ナタリーの父親は「チューリップを家に呼ぶのはいいけれど、彼女の家に遊びに行ってはいけないよ」と注意を促していました。自分の娘には見せたくない世界を抱えた子どもがいる、ということを大人はわかっているのです。そして、その子どもの心に手を伸ばすことは、自分の役割ではないということも。大人はあらかじめ触れたくないものに「触れ」はしないのです。サッカーの作品のような優しいカウンセラーはこの作品には登場しません。大人は誰も助けてくれない。でも、「親友」ならできたこともあったのではないか?。

ナタリーは後悔に胸を痛めたまま、この町を去ることになります。深く考えさせる余韻を持った作品です。『人間は鍵のかかったドアではない・・・』という言葉には考えさせられます。とはいえ、人の心のドアに手を伸ばすことの責任の重さを常に考えてしまうものです。そして、その頑強なドアを見て、見ぬふりしてしまうものかも知れません。自分の容量オーバーはわかっていても、心は痛みますね。

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