海を見た日

The Echo Park Castaways.

出 版 社: 鈴木出版

著     者: M・G・ヘネシー

翻 訳 者: 杉田七重

発 行 年: 2021年05月

海を見た日  紹介と感想>

突然、視界に海が開ける瞬間の胸の高鳴りは抑えきれないものがあります。例えば、旅先で電車に乗っていて、ふいに輝く水平線が目の前に現れた時。『放浪記』(林芙美子)に、汽車の車窓から尾道の海が見えて、主人公の気持ちが弾ける印象的な描写がありますが、海に出会って感情が溢れてしまうのは、久しぶりの故郷の海だけとは限らないものです。もしそれが、生まれて初めて見る海だったら、どんなに心が震えるか。しかも、上昇する観覧車が遥か遠くに見せてくれた景色なら、なんてドラマティックなのだろうかと思います。高度を上げることで次第に広がっていく世界の向こうに見える海。実は普段は見えていないだけで、地続きの向こうに、海はあらかじめあったのです。そのことに気づくだけでも、世界は急激に広がりはじめます。この本の裏表紙の装画には、物語のそんな瞬間が繋ぎ止められています。それぞれに深く孤独で、なけなしの希望をよりどころにした四人の孤児たちが乗った観覧車が、海が見える高さに達した瞬間。一番年長の少女ナヴェイアを通じて語られるその光景とスパークする心象には息を呑みます。美しさに圧倒されたまま何も言葉にできない子どもたちの沈黙こそが有弁です。この本の邦題である『海を見た日』にこめられたものを想います。本来はクライマックスというわけではないこの場面に、大きな比重を与えた本の作りとなっています。現実の重さに沈んでいたナヴェイアの気持ちに兆していく世界の広がりを、鮮やかに描き出すこの瞬間をとっておきたい、とそう思わされます。あえかな想いを封じ込めた結晶のような物語です。

同じ里親のもとで暮らしている四人の孤児たち。夫が亡くなってから、里親として孤児たちを育てる気概がなくなってしまったミセス・Kの下で、年少の子たちの世話を焼いているのは一番年長の少女、ナヴェイアです。十三歳ながら養い親の家をいくつも渡り歩いてきた彼女は、この家がそう悪くない場所だと思っていました。この先、誰の養子になることもないだろう自分が自立して生きていくために、堅実な将来の計画を考えている彼女は、比較的まともなこの家での生活を維持したいと思っていました。そのためには、ミセス・Kが里親であることを投げ出さないようにサポートする必要があります。夢や希望よりも現実を見ているナヴェイア。一緒に暮らすのは、ADHDで落ち着かない少年ヴィクや、寡黙でスペイン語しかしゃべらない女の子マーラ。そしてここにアスペルガー症候群の少年、クエンティンが加わります。目下のところナヴェイアが手を焼いているのはトラブルメーカーのヴィクです。薬を飲むことを言い聞かせないとどうなってしまうかわからない活発すぎる少年。そんなヴィクもまた母国に帰ってしまった親と別れて孤児として生きる哀しみを背負っています。自分のことをスパイだと思い込むことで哀しみを蹴飛ばしていくヴィクの主観はユーモラスであり、その漢気で、寂しさに沈むクエンティンを病気で入院中の母親と会わせるという極秘プロジェクトをスタートさせてしまうあたり、実に手に負えないのです。結果的に、連れ立ってクエンティンの母親の入院する海辺の町を目指すことになった四人の孤児たち。家族のように暮らしていても、簡単に心が結びつくわけではないのは、それぞれ抱えてきた哀しみや不安を、自分自身で癒すことでしか術がない人生だったからです。この世界の広がりにすこしだけ気づくことになるショートトリップ。まるで美しい光景を見た時のように、頑なな子どもたちの心に兆していくものの閃きに息を呑んでしまう見事な物語です。

児童文学を読むことの愉悦をあらためて感じさせられる作品です。よるべない孤児たちのいたわしさ。それは、ちゃんとした親がいても抱くことのある、子ども心に共通する淋しさではないかと思います。これまで色々な児童文学作品によって出会わせてもらった、あのどうにも寂しく、痛烈に切なく愛おしい感覚を思い出させる物語です。『オリーブの海』の亡くなった友人と海へ寄せる気持ちを、『Eggs』のあてどなく歩く、親を亡くした子どもたちの気持ちの交感を、『青空のかけら』の孤児と里親が互いに手探りで気持ちを触れ合わせる有様を、あるいは孤児となった姉妹が彷徨する物語である『残された天使たち』の互いを思い遣る気持ちを、そんな心を動かされてやまなかった秀逸な作品がいくつも浮かんできます。古い国内作品ですが、『ひろしの歌がきこえる』という、なんとも見事な作品もありましたが、これもやはり孤児が海と出会う物語です。さまよい歩く子どもたちは孤独の中で、精一杯、自分をこの世界につなぎとめようとしています。なんとか自分を保って、立ち続けていようと精一杯気を張っている生きている子どもたちの姿。時に言葉がいき過ぎて傷つけあってしまったり、急速に今まで感じなかった愛おしさを互いに覚えたりする。不器用にぶつかりあいながら、少しずつ心を近づけていく主人公たち。その姿は子どもたちにも、いわんや大人にも、君は一人ではないのだと、強い励ましを与えてくれるものです。ヴィクの「スパイ妄想」がともかくユーモラスで楽しく、それゆえ哀に切があるのですが、海外児童文学作品における「子どもスパイもの」のスタンダードぶりがこんなところにも垣間見える気がしましたが、厳しい国際的情勢に影響を与えられて生きている子どもたちだからこそなのかも知れません。