悦ちゃん

出 版 社: 筑摩書房

著     者: 獅子文六

発 行 年: 2015年12月

悦ちゃん  紹介と感想>

昭和11年(1936年)に報知新聞に連載された新聞小説です。何よりもこの作品が目新しかったのは、当時の新聞小説で初めて「子ども」を主人公にしたことでした。昭和初期、まだ戦争が泥沼状態になる前のモダンな文化が息づく東京の街で、思わぬハプニングにみまわれながらも、大活躍する十歳の女の子、悦ちゃんの元気とバイタリティ。そして、その切ない気持ちが、胸を打つ痛快な作品です。昭和を代表する通俗小説の描き手、獅子文六氏の出世作。今読んでも充分以上に面白い暖かいユーモアにあふれた快作です。2015年にこの本も再刊されていましたが、2017年には新聞連載からなんと80年後にTVドラマ化されるという驚きの展開がありました。ドラマとは大分、物語が違っていますので、是非、原典を読んでいただければと思います。

悦ちゃんにはママがいません。八歳の時に死んでしまったのです。パパは売れない歌謡曲の作詞家の柳碌郎、通称「碌さん(ろくさん)」。ちょっとおませで口の達者な悦ちゃんと、元々いい家のおぼっちゃんのせいか、のほほんとしすぎた性格のパパ。悦ちゃんはパパとの気ままな暮らしも楽しいけれど、ママが欲しいなあと時々、寂しい思いをしていました。ヤモメ暮らしの弟を見かねて碌さんのおねえさんが見合い話を持ってきます。これがまた良家の子女、美貌の才媛で教養と財産あふれるお嬢様。碌さんは、あれよ、という間に夢中になってしまうのですが、悦ちゃんは、どうも、このインテリメガネのお姉さんが好きになれません。悦ちゃんが好きなのは銀座のデパートガールの鏡子おねえさん。パパと一緒に海水浴の水着を買いに行ったときに水着を見立てくれた優しいおねえさんをすっかり気にいってしまったのです。偶然、避暑地で鏡子おねえさんと再会した悦ちゃんは意気投合して、東京での再会を約束します。銀座の大きなデパートの売り子の鏡子さんは清楚で美しい二十二歳。厳しい職人のお父っつぁんと優しい後妻のお母っさんに育てられた内気だけれど気だての良い娘。義理のお母さんは鏡子さんに良い婿さんを見つけようと躍起になっています。まだ、鏡子さんは結婚する気なんかないのに、継母の懸命な思いに気持ちをひきづられています。鏡子さんの気持ちにあるのは悦ちゃんのこと。悦ちゃんもまた鏡子お姉さんに会いたくてしかたない。それなのにパパの碌さんは見合い相手にすっかり骨抜きにされていきます。お嬢様に夢中になったパパの碌さんは、とんだライバルの横恋慕からお嬢様の心変わりに遭い、悦ちゃんを置いてお嬢様恋しさに迷走するハメになります。一人、東京に残された悦ちゃんを守ったのは、無理に両親に結婚を迫られ、デパートを辞めて家を飛び出した鏡子さん。悦ちゃんと鏡子さんの貧乏苦行の逃避行が始まります。意外と生活力がない鏡子さんを助けたのは、路肩の新聞売りをした悦ちゃんだったりして、なんだかんだでピンチを切り抜ける二人。やがて悦ちゃんがクリスマス会の日に教会で歌ったパパの作詞に即興で曲をつけたジャズ・ソングが注目されて、日本版シャアリィ・テムプル(当時の有名な子役です)として歌手デビューが決まるのです。鏡子さんには、目論見がありました。悦ちゃんが有名になれば、行方不明になったパパも見つかるんじゃないかと。かくして芸名「日本テンプルちゃん」の活躍がはじまります。果たして、離れ離れになった親子は、再び、めぐり合えるのでしょうか。

久しぶりに読みましたが、あふれるユーモアと、愛情に満ちた物語に思わずにっこりしてしまいました。とりわけ、悦ちゃんと鏡子おねえさんの手紙のやりとりがいいんです。悦ちゃんが寂しくなって、おねえさんに気持ちを伝えるあたりなど切なくなります。この作品のテーマは実は継母の愛情についてなのです。継母はママとハハが一緒になっているのだから、お母さんが二人いるようなものという楽天的な言葉が、通常なら「難しくなる関係」を優しく包んでいます。このテーマには作家の思いが痛烈に込められていたということを後に自伝小説等で知ることになりました。それにしても、戦前の獅子文六氏の作品はどれもこれも登場人物たちに深い愛情が注がれていて、いとおしくなってしまうような魅力があります。二番煎じですが、日本版ディアナ・ダービン(『オーケストラの少女』の女の子ですね)を描いた『東京温泉』、男の子小説『故障息子』、ケーキ職人の切ない恋『沙羅乙女』、新米女学校教師の活躍を描く『信子』など、どれをとっても素敵なのです。獅子文六といえば、戦後(アプレゲイル)の風俗を痛烈に描いた作品(『自由学校』や『てんやわんや』など)の方で有名で復刊されたことがありますが、僕はこの戦前作品の愛おしさにこそ、獅子文六の妙味があると思っているのです。さて、モダンな東京を舞台にした品行方正な児童文学にはない活き活きとした子どもの大活躍をご覧になりたければ、是非、『悦ちゃん』を手にとっていただければと思います。